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1529. 大伽藍の加護の下で


激しい嵐が通り過ぎ、全てのものが吹き飛ばされ、世界がもう一度始まり直すかのような感覚を体験するような日だった。

怒涛のような感情の流れの後にやってきたのは、息を呑むほどの静けさであり、そこからまた新しい世界が始まったかのような感覚だった。それを経験したのは、拙書『成人発達理論による能力の成長』を取り上げたオンラインゼミナールの最後のクラスの後だった。

形式上、今日で完全にゼミナールを終えた。何かを終えることはこれほどまでに難しいことなのだろうか。

そもそも、この世界に完全なる休止符を打てる現象など存在するのだろうか。宇宙の誕生にせよ、私たちの生命の誕生にせよ、その本当の始まりを特定することなどできない。また、その終わりを特定することなどできはしない。

一人の人間が生涯を閉じる時、それは果てして終わりを意味するのだろうか。いや、そんなことは決してない。

一つの生涯を閉じて、今なお生き続けている過去の偉人たちを私は何人も知っている。そうした点において、人生には始まりもなければ終わりもないのではないだろうか。

「それを始めたきっかけはなんだったのでしょうか?」という問いを投げかけられ、その返答に困ったことはないだろうか。暫定的にその問いに答えを提示してみたところ、果たしてそれが本当にそれを始めた根本のきっかけだったのかと疑った経験はないだろうか。

自分が提示した回答よりも実はもっとずっとその始まりの歴史は古く、そのきっかけはもはや私たちの人生が始まる前からあったのではないか、と考えた経験が誰しもあるのではないだろうか。事物の始まりや終わりを特定することはそれほどまでに難しいのだ。

もしかすると、そうした試みは不毛なのかもしれない。今回のゼミナールの形式上の終わりは、やはり終わりを意味しない。

そもそもそれは終わってなどいないし、始まってさえもいなかったのかもしれない。ただそれが、あるべきところにあるべき形であったのだ。

今回のゼミナールが形式上始まったのはいつだったのだろうか。書籍を世に送り出した時なのか?書籍を執筆しようと思い立った時なのか?今から四年前にカート・フィッシャー教授に会った時なのだろうか?それとも私が今から六年前に会社を辞め、米国に渡って発達心理学を学び始めた時なのだろうか?

いや、始まりはもっとずっと前にあり、それは「ある」と言えないほど遥か昔にあったかのような、始まりなき始まりの時だったように思える。 そのように考えてみる時、全ての事物の始まりと終わりは、「非在」という「存在」として捉えることができるのではないだろうか。「非ずして在る」という、この始まりと終わりの不思議さに吸い込まれたような経験を本日したのである。

その感覚が落ち着きを見せた時、私はまたどこかに向かって歩き出そうとしていた。再び歩みを始めた私は何かの中に居続けていた。

無数の刹那で創り上げられた大伽藍の中に私は居続けていたのである。いや、この世界の誰しもが、この大伽藍の外に出たことなど一度もなく、そんなことはできないのだ。

私たちは、この無数の刹那で創り上げられた大伽藍の加護を受け続けているのである。今この瞬間それに気づくことはできないだろうか。2017/9/10(日)

No.175: Evidence-Based Education and Value-Based Education I read an insightful article about evidence-based education and value-based education.

Needless to say, evidence-based education is effective to improve the quality of education. However, especially educators have to pay attention to how to use scientific evidence.

It should be avoided that educators simply apply scientific evidence to their practice without any consideration. More specifically, they must eschew emphasizing only evidence based on educational research because value judgment always involves in educational practice.

Imagining an extreme example that one scientifically proven fact is highly effective for enhancing learning but it is ethically unacceptable, what should educators do?

Of course, one of the main purposes of education is to foster learning, but education should be provided under ethical principles.

I have recently seen some educational practice whose purpose is just to enhance development of children without any ethical discourses.

Hence, I would like to insist that educators should integrate both evidence-based judgment and value judgment. This issue seizes my interest, and thus I will explore it from perspectives of philosophy of education. Wednesday, 9/13/2017

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