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1528. あの場所へ向かって


読みに読み、書きに書き、作りに作ることで埋め尽くされた生活。それら以外のことに従事しない生活の実現に向けて、今日も読みに読み、書きに書き、作るに作る。

そうした生活態度は自分の内側で徐々に確固たるものとして構築されつつある。あとは外的環境を整えることだけになりつつある。

これはどの国で生活をし、どの大学で仕事を続けていくかということと密接に関係している。住環境にせよ、経済環境にせよ、そうした外的環境を完全に整備するまでにはもう少し時間がかかるかもしれないが、少しずつ自分を取り巻く環境が整い始めていることを感じる。

読みに読み、書きに書き、作りに作ることだけに専念できる外的環境の中で日々を生きていくためには、兎にも角にも今自分が行っている取り組みに集中する必要があるだろう。それを蔑ろにしていては、そうした外部環境の中で、自分が心底希求する生き方を実現させていくことは難しいだろう。

来年の今頃は、もしかすると再び米国で生活をしているかもしれない。仮にそこで生活を始めたら、今度は間違いなくそこに捕まると思う。つまり、次の生活拠点はおそらく今後の自分の活動を根幹から支えるものとあり、そこには長く居住するような予感がするのだ。

少なくとも5年以上、もしかすると10年ほど、下手をするとそれ以上の期間をその場所で過ごすかもしれない。どうも私には、これまでの人生や今の生活というものが、その場所に行くためにあったとしか思えないことがよくある。

その場所には遥か昔に呼ばれているのだが、長い年月をかけてようやくそこに辿り着くというような感覚があるのだ。その場所に真に辿り着くためには、オランダでの今の生活を静かに完全燃焼させていかなければならない。その先に始めて次の場所が現実のものとして姿を表すだろう。 「あぁ、同じことを考えていた」「あっ、それは自分もイメージしていたことだ」という頻繁に耳にする言葉を思い返したとき、それでは私たちは同じ夢を見るのだろうかということを考えていた。

これは完全に同一でなくてもいい、ただし、それが同じ夢だったと言えるような精度と確度を持つ夢を別々の人が見ることは可能なのだろうか、ということに関心を持った。昨夜見た私の夢は、この世界の誰かも同時に見ていたのだろうか。

あるいは、過去の人間が昨日の私の夢をすでに見ていたということは可能なのだろうか?そうしたことを考えることは可能である。なぜならもうそれを考えてしまったからだ。

表層意識下で同一イメージを共有することができるのであれば、深層意識下でもそれは十分に可能なのではないだろうか。しかも夢という形においてである。

さらには、夢が夢を見るという事態についてはどうだろう。夢を見る主体は私たちではなく、夢そのものなのかもしれないという前提を置いてみるのだ。

それはとても滑稽な前提なのだが、現象を生み出していると思っていた原因的主体が、実は別に存在している可能性を考える上で極めて重要な発想に思える。昨夜の夢も少しばかり印象に残っている。

完全にドアが閉められた教室の中で、私の旧友や比較的最近知り合った知人が教室の机につき、一つの話で盛り上がっていた。もちろん私もその輪の中にいて、盛り上がる話に参加していた。

すると、私の方から冗談交じりな提案で、「ここにいるA君が生きるためには、各人から5本の髪の毛を寄付してもらうことが必要なんです」と述べた。その場にいたのは、すでに大の大人たちなのだが、私の発言を真剣に受け止め、その場にいた全員が5本きっかり髪の毛を抜こうと必死になっていた。

長らくお世話になっている知人の一人が巧みにも、箸を使って数少ない自分の髪の毛を抜き、5本の髪の毛を箸に掴んだまま持ってきた。私はその方にお礼を述べ、続々と自分の髪の毛をA君のもとに持ってくる他の人たちの様子を眺めていた。

この寄付活動が終わったところで、再び議論に花が咲いた。あまりの盛り上がりに、ドアを閉めていたにもかかわらず、向かい側の教室で授業をしていた教師が「うるさい!」と叫びだした。そして、その教師が怒りの表情を維持したまま私たちの教室に入ってきた。

その直後に、私たちの担任の教師が教室に入り、何事もなかったかのように、とても静かな空気の中で、音楽に関する話をし始めた。私は自分の机を見つめ、うつ向いたまま作曲に取り組み始めた。

そこで夢から覚めた。昨夜の夢も別の誰かが見たことのあるものなのだろうか。

さらには、昨夜の夢を見ていたのは自分という主体ではなく、実は夢があの夢を見ていたと考えることはできないだろうか、ということを考えていた。2017/9/10(日)

No.174: The Importance of Philosophy of Education In the afternoon, I was pondering the importance of philosophy of education. This theme comes to mind again and again.

Because I have recently spent much time and energy to engage in scientific research, I often miss philosophical discourses. In particular, discourses on human development and education have captured me for a long time.

I may embark on engaging in philosophy of education in a rigorous way in my near future. Wednesday, 9/13/2017

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