昨日は、学術研究と作曲実践に集中して打ち込んでいたため、気づけば振り返りの時間をあまり設けていなかった。珍しく日記を書く分量も少なかった。
昨日は大学のキャンパスに足を運び、「実証的教育学」と「学習理論と教授法」のコースに関する課題論文を印刷していた。今日から数日間は、これらのコースが始まるまでに、できる限り多くの論文を一読しておきたいと思う。 キャンパスから自宅に戻ってくると、一つの郵便物が届けられていた。自宅に着いてから郵便物を開けると、中から出てきたのはフランツ・シューベルトの楽譜だった。
先日、シューベルトが残したピアノソナタ全曲の楽譜を購入し、それが無事に到着したのである。この楽譜にはシューベルの未完の作品も収められている。
それらの未完の作品の楽譜を眺めた時、自分が作曲を始めようと思い立った歳と同じ年齢でこの世を去ったシューベルトの人生に思いを馳せずにはいられなかった。シューベルトがこの世を去ったのと同じ年齢の時に作曲を志したのは何かの偶然だろうか。
今、書斎の中では、シューベルトのピアノ曲が静かに流れている。外は早朝から雨に見舞われている。
七時を迎えたフローニンゲンの街はまだ暗く、寒空から雨が降りしきる。夜が完全に明けていない中で、雨がガラス窓にぶつかる様子だけがはっきりとわかる。
書斎に流れるシューベルトのピアノ曲は、一時的に過ぎ去っていく雨とは異なり、過ぎ去ることのない流れを本質的に持っていると思った。それこそが、シューベルトという一人の作曲家が辿り着いた普遍性であり、彼の魂は曲の中で生き続けている。
シューベルトの曲を聴きながら、少なくとも作曲にかける意志、そして、創作活動に打ち込んだシューベルトの意志を受け継ぎたいと思う。そうした新たな決意とともに、今日という一日を緩やかに開始させようと思っていた。
しかし、最後にもう一つだけ書き留めておくことがあった。シューベルトの意志を受け継ぐことに関係して、ある科学者の意志を受け継ぐことを暗示する夢を昨夜見た。
昨夜の夢の中で、私は元ハーバード大学教育大学院教授のカート・フィッシャーと対話をしていた。フィッシャー教授の研究室で発達研究に関する意見交換を行っていたのである。
フィッシャー教授は終始笑顔で話をしており、その場の雰囲気はとても和やかだった。和やかでありながらも、非常に充実した会話がしばらく続いた後、フィッシャー教授が突然話題を変えた。
フィッシャー教授:「洋平、うちの大学で一緒に研究をしないか?実は来年、私は退職することになっており、大学にいられるのも来年が最後なんだ」 この言葉を聞いた時、とても有り難い申し出に嬉しくなった。その場で私は何と返答したのか覚えていない。だが、その時にフィッシャー教授から自身が執筆した最後の論文を手渡されたのをはっきりと覚えている。 フィッシャー教授:「よかったらこれを一度読んで欲しいんだ」 優しい笑顔とともに、その言葉を発したフィッシャー教授は、科学者としての集大成として書き残した最後の論文を私に手渡した。それを受け取った瞬間、数十ページの紙の論文を遥かに超えた重みを確かに感じた。
何かを託されたのだ、という確かな実感が自分の中でふつふつと湧き上がっていた。手渡された論文をしっかりと握りしめたまま、私は夢から覚めた。 多くを語ることはしない。シューベルトやフィッシャー教授から何かを継承し、それを伝承していくという意志だけが今の自分を根底から支えている。2017/9/8(金)
No.165: A Glorious Day Today will a glorious day. I imagine so without any rational reasons.
Logical thoughts do not come first, but somatic senses appear first. That is why I thought that today would be a sublime day.
I used the future tense to describe the splendidness of today. Yet, it is not correct.
The precise description is that today is glorious or today is being splendid. Tomorrow will be so. Monday, 9/11/2017