フローニンゲン大学での二年目の二日目が静かに始まった。今朝は五時半に起床し、六時前に一日の仕事を開始させた。
昨日、マイラ・マスカレノ教授やジャン=ヴィレム・ストレイボス教授と会話をして改めて思ったが、非常に優秀な研究者に囲まれて日々の学術研究に打ち込むことができること以上に喜びはない。より正確には、自分の無知さや無能さを絶えず感じさせてくれる環境に身を投じることは、私に大きな喜びをもたらすようなのだ。
二年目のプログラムの前半は履修するコースが多く、さらにはそれぞれのコースで要求されている事柄も高度であるため、腰を据えてそれらと向き合う必要がある。そうしたこともあり、二年目の前半にどこかの国の学会に参加する余裕はないかもしれないが、とりあえず自分の関心領域に合致する学会にはどのようなものがあるかを、マスカレノ教授とストレイボス教授に今日の午後に尋ねておこうと思う。
その際に、昨年執筆した自分の論文を忘れずにメールに添付するようにしたい。昨日もマスカレノ教授と話しながら改めて胸に到来した思いは、自分が研究したいことを研究すればいいという非常に単純なものだった。もちろんそれは研究の意義などを一切考慮に入れない利己的な意味ではない。
だが、そもそも自分の内側から湧き上がる強い内発的な動機がなければ研究など進めていくことはできないだろう。今の自分の中には、人間発達の領域においては成人教育に強い関心があり、さらに細かな研究項目で言えば今はMOOCに着目をしている。
さらにもう一つ強い関心事項を挙げるとするならば、楽曲研究だ。これは毎日自分が作曲の実践をする中で、過去の偉大な作曲家が残した作品を科学的な観点から解析をしたいという思いから来ている。今の私はピアノ独奏曲しか作曲しないという考えを持っているため、研究対象となるのは過去の偉大な作曲家が残したピアノ独奏曲だけとなる。
そのため、協奏曲も交響曲も聴くことはあっても、それらを研究対象にすることは当面ない。自分の関心のある対象に焦点を当て、それだけを研究していく。
そうした姿勢を持たなければ、研究に真に打ち込むことなどできはしない。もう少しばかり俯瞰的に研究の方向性を考えてみると、科学的な論文のみならず、やはり哲学的な論文を執筆していきたいという思いがある。
主たるテーマは人間発達と教育に関するものになるだろう。ただし、哲学論文を書く下地が今の自分にはまだ構築されておらず、日々日記を執筆する中でそうした下地を確立していこうと思っている。
とにかく学術研究にせよ、作曲実践にせよ、自分の内側にほとばしる創作意欲を抑えることなどできないのである。論文と曲を創るための理論と方法を絶えず学び続けていく。
しかもそれは実際に文章を書き、曲を作るというプロセスの中で行っていく。文章を書かず、曲を作らないままに論文と作曲の理論と方法など体得しようがない。
今の自分がどれほど未熟であったとしても、醜態を晒しながらでも文章と曲を作り続ける過程の中で、論文創作と作曲の方法論を自らで掴み取っていくのである。今日もそこに至るためのかけがえのない一日になる。2017/9/5(火)
No.155: Our “Cruel” Freedom
We are always “cruelly” emancipated and liberated from anything.
However, we are unfortunate not to feel our cruel freedom because of the nature of this modern society.
The modern society imposes constraints on us that are usually tied with the ideology of capitalism.
The culture and systems in the modern world guilefully avert us from our intrinsic emancipation and liberation.
Why don’t we discover and relish our cruel freedom? Friday, 9/8/2017