夢から覚め、夢の断片的な記憶を書き留めたところで、少しばかり心を再度落ち着かせていた。あの夢は何を暗示していたのだろうか。
とても印象的なのは、夢の中で私は、体験したことのないぐらいの真っ暗闇の世界を歩いていたことである。闇の中に光る、道行く車の黄色く光るライトを忘れることができない。
そういえば、夢の中で蛍光灯を持っていないのかどうかを自分で一度確認したことがあった。だが、自分には光を発せられるものなど何もなかった。
車の光だけを頼りにし、私は坂道を歩いていた。無事に坂道を登りきったところで友人に出会った時、何だかとても安堵した。
久しぶりに彼らの顔を見た時、とても落ち着いた心になったのである。しかし、友人の一人が指摘していたように、私は間違った方向に歩き続けていたのである。
車の光は他者の光。他者の光を頼りに道を進んではならないのか。
「自分の光が必要なのだ」という言葉が自然と自分の内側から湧き上がる。真っ暗闇を手探りで進んだことは決して無駄ではなく、むしろ逆にそこで友人たちと出会い、一人の友人の何気ない一言が、自分の光を持つことの大切さを教えたのである。
他者の光を頼りに道を進んではならないのだ。しかし、それを教えてくれるのは他者なのだ。
そこから自分自身の光を内側に見出し、その光をこの世界に照らしながら道を進んで行くことが必要なのである。友人と別れた後、私はしばらくその場にじっとたたずんでいた。
何かを考えるのでもなく、何かを迷っているのでもなく、ただその場にじっとしていた。そこから一歩足を前に自然と踏み出した時の自分は、おそらくもう自分の内側の光の断片を見つけていたのだと思う。
そして、進むのか進まないのかの選択肢と向き合うまでもなく、歩き続けた姿こそが自分の本質を物語っているような気がするのである。 自らの光を持って歩き続けることについて、ここでまた少し考えていた。六時半を迎え、辺りは随分と視界が開けてきた。
外の世界がが明るくなってきたのと同時に、「人生を綴るということは、人生を呼吸することに他ならない」という一文が突如として立ち現れた。生きることに辛さを感じる多くの人がいることを知っている。
それはもしかすると、呼吸をしていないからなのではないかと思う。自分の人生を呼吸していないのだ。
人は呼吸をしないで生きることはできないのと同様に、人生においても、それを自ら綴るという呼吸をしなければ、真に生きることの喜びや充実感を得ることなどできないだろう。
他者に自分の人生を綴られることをやめてみるのはどうだろか。その代わりに、自ら自分の人生を綴るのである。
他者が綴った他者の人生を眺めれば、惨めさを感じることがあるかもしれない。また、他者に自分の人生を綴られることは、どれほど息が詰まることだろうか。
人生は惨めさを感じるためにあるのでは決してなく、窒息するような苦しみを味わうためにあるのでもない。私たちの人生は、各人固有の充実感と幸福感を感じるためにあるのだと思う。
そのためには、他者に自分の人生の引導を渡してはならないのではないだろうか。他者の世界に関与することと他者の世界に依存することは、似て非なるものである。
他者への関与を通じて、自分自身の人生を自ら綴る必要があるのではないだろか。さもなければ、私たちは人生が持つ真の充実感と幸福感を味わうことなどできないと思うのだ。
自分で人生を綴り、自分で呼吸することを私たちは忘れてはならない。2017/9/3(日)
No.149: Writing and Development The thrust of my inquiries never ceases. A spate of my thoughts and feelings emerges spontaneously and infinitely.
To suppress the explosive creative energy is not desirable. I just write down my thoughts, feelings, senses, and inquiries to give them a form.
Writing is an action itself. It can unfold and awaken me. Since unwrapping is the etymology of development, writing is potent practice to develop us. Wednesday, 9/6/2017