
今日のゼミナールのクラスの余韻が残り続けている。それは、大海の上に落ちた一つの石が作った波紋が、どこまでも遠くに伸びていくような感覚である。
昨日のゼミナールのオフィスアワーの中で、一人の参加者の方から「独坐観念」という言葉を聞いた。それは素晴らしい意味を持つ言葉だった。
一期一会の体験をした後に、一人で座し、静かにその体験を深く味わうこと。それが独坐観念の意味である。
今日のゼミナールのクラスを終えた今、私は独坐観念の中にいる。今日のクラスで生まれた場というのは、あの時間だけのものだった。
もう二度と同じ場が生まれることはなく、同じ時間が流れることはない。まさにそれは一期一会の体験であったと言っていい。 その体験の余韻がずっと消えることなく、どこか遠くの方へ伸びていく感覚がするのだ。私たちの日常の全ての瞬間が、一期一会で成り立っているように思えて仕方ない。
その人との何気ない会話や自分の中のその感情。その瞬間に立ち現れる一期一会の現象を挙げればきりがない。
日々が一期一会で満たされているのであれば、私たちは常に独坐観念の姿勢を持って生きる必要があるのではないだろうか。その瞬間にしか起こらない現象と出会えた奇跡を無視することなど誰にできるだろうか。
一瞬一瞬が持つ時間の密度をくぐり抜け、一つの一期一会の体験が終わった後、私たちにできることは静かに座してその余韻に浸ることなのではないだろうか。現代社会は時の流れも速く、次から次へと体験を私たちに与えようとする。
そうした状況において、体験から体験に飛び移っていくような態度を持つのではなく、一つの貴重な体験が終わった後に、それを深く味わうという姿勢を強く持ちたいものである。体験そのもの中に生の充実さや幸福さがあるというよりも、もしかすると本質的な充実感や幸福感は体験後の余韻の中にあるのかもしれない。
もしかすると、真の充実感や幸福感というのは、現象の余韻そのものに他ならないのではないか。時間的にせよ、精神的にせよ、余白や余裕という言葉が淘汰されるような現代社会の中に私たちはいる。
一つの体験から新しい体験に飛び移っていくような、体験消費的な態度を改める時期に私たちはいるのではないだろうか。情報に満ち溢れたこの現代社会において、私たちのほとんどは情報の単なる消費者に成り果てている。
私たちは、生きることに関する体験においても単なる消費者に成り下がっていいのだろうか。生の充実さや幸福さは体験を消費することの中にあるのではなく、体験後の余韻の中にあるのだということをここで改めて考えるべきではないか。2017/9/2(土)
No.146: “Chord,” “Melody,” and “Theme” Analysis I have been learning the progressions of chords as the first step to compose music, although there might be a different approach to practice music composition.
Since imitating chord progressions is permitted, I analyze the chord progressions of some pieces of music that are my favorite.
In parallel with the analysis for chord progressions, I want to grasp the essence of creating beautiful melodies. Here, my next step would be analyzing melodies.
In addition, I will do “thematic analysis” by briefly describing the theme of a particular part of each piece of music, for instance, “gloomy feeling,” “joyful moment,” “metaphysical enlightenment,” etc. Tuesday, 9/5/2017