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1447. 南極と自己の極深化


昨日に続き、今朝の目覚めも比較的ゆったりとしたものだった。それは、北欧旅行後の何かしらの調整を自己の存在が試みていることと関係しているかもしれない。

内側に浮かぶ雑然とした思考や感覚を透き通った咀嚼物に変化させていくかのように、時間をかけて何かを発酵させようとしているようだ。内側の表層世界は未だ雑然としており、少しばかり慌ただしいのだろう。

そうした雑然さと慌ただしさを鎮めるために、比較的長い睡眠時間が必要になっているように思える。今回の旅から真に得られたものが自分の言葉となり、自分の骨身になる日は随分と先のことになるだろう。

それが実現するためには、時の経過が必要であり、時というふるいにかける必要がある。時の発酵過程を経たのち、それはこの次に待つ自分の確かな土台となるだろう。 早朝の目覚めと共に、外側の世界に激しい雨が降っていることに気づいた。何かを訴える雨の声が聞こえたのである。辺りは鬱蒼とした世界として私に知覚された。

どんよりとした雨雲から雨がこの世界に降り注いでいる。数羽の黒い鳥が空を東から西、西から東へと横切っていく。

鳥たちにとってみれば、今日が土曜日であることなど関係なく、自然は同様に曜日など気にしていない。目の前に見える自然界は時間を超越し、超然とした姿でたたずんでいるように思える。世俗的な時間感覚に縛られているのは人間だけのようだ。 昨夜の就寝前に気づいたが、随分と日暮れが早くなった。夜の九時半になる頃には、当たりがほぼ暗闇に包まれるようになったのだ。

十時に就寝する頃には辺りはもう暗かった。ひたひたとあの厳しい冬が近寄ってきていることを知る。北欧旅行の最中、ホテルであるドキュメンタリー番組を見た。それは南極の深海を探索する特集だった。

南極の深海の生物たちが巨大化しているのは、南極の海の冷たさがもたらす諸々の恩恵によるものだということを知った。極寒の地は、取り巻く状況がただ過酷なだけではない。

その過酷さがもたらす恩恵があるのだ。精神を突き刺すあの過酷な冬がまたやってくる。自己を極度に圧縮する張り詰めた冬がまたやってくる。

こうした冬を自分は何度も何度も通り抜けていかなければならない。その先に巨大化した自己、いや極深化した自己の存在を見たいと思う。2017/8/19(土)

No.93: Teaching as Communicative Practice Teaching is communicative practice.

Niclas Luhmann’s systems theory posits that the social aspects of systems should be recognized as communication.

If I continue to cultivate my understandings of teaching as communicative practice, Jürgen Habermas’s theory could be also beneficial.

Anyway, teaching is a communicative action based on the relationship of a couple of dynamic systems. Friday, 8/25/2017

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