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1385. 「日記的随筆」「随筆的日記」の確立に向けて


早朝はあいにくの曇り空だったが、自分の思いが届いたのか、昼食前から晴れ間が広がった。数日前に計画していた通りに、昼食前にランニングに出かけた。

欧州に渡って以降、曜日の感覚というものがいよいよ無くなり、今日が平日の水曜日であることにはたと気づかされる。八月に入っても依然として涼しい気候が続いており、もしかすると昨年の夏よりも涼しいのかもしれないと思っている。

ランニング中にふと、誠実に仕事を進めていくことが何より大切かを改めて思った。それは自分の仕事に対する向き合い方でもあり、協働者やクライアントに対する姿勢でもある。

何か貢献をしようとするよりも真っ先に求められるのは、自己や他者に対する誠実性だと常々思う。日々仕事をしていて思うのは、自分が何か大きな貢献を組織や社会に果たせるとは到底思えず、逆に組織や社会も私に大きなことなど期待していないことがわかる。

大事なことは、誠実さを絶対条件とした関係性の構築であり、関与なのだと思う。お決まりのノーダープラントソン公園の中を走っている途中で、ふと右に顔を振ると、学期中に足を運んでいた社会科学キャンパスにつながる道を見つけた。

普段、社会科学キャンパスに行く時は、近道がてら公園を大胆に横切ることにしているため、今自分が走っている道を通ることはない。しかし、よくよく考えてみると、今自分が通って来た道は、公園内にある深々とした森林の中を通ることができ、そこで得られる自然の癒しの力と活力を考えた場合、時間にゆとりをもたせてこの道を通って社会科学キャンパスに行くべきことが望ましいと思った。

自然というのはつくづく不思議だ。そして、自然と人間の関係もつくづく不思議だ。私たち人間は、どれほど自然から恩恵を受けていることだろうか。

あの静寂な深い森林の中にいる時、心は自然と観想的な状態に誘われる。私たちは、人工的な建物の中にあってこのような意識状態に誘われることはないだろう。

それほどまでに、自然は私たちの心身、そして魂にまで影響を与えるのだ。燦然と輝きながらも、それでいて優しい太陽光を全身で浴びながら、私はノーダープラントソン公園を走り抜けた。

そして、街の中心部に向かって走り続け、行きつけのインドネシアンレストランに足を運んだ。店が開く時間よりも数分早く到着したが、店主の奥さんが私の存在に気付き、早めにドアを開けてくれた。

一番客として注文したものは、いつもと全く同じものである。店主と店主の奥さんと少しばかり雑談をし、インドネシア語について少し教えてもらった。

私は中学校時代にインドネシアを訪れる機会があり、その時に覚えた食べ物の名前しかインドネシア語を知らないため、店主の奥さんが親切に色々と新しい言葉を教えてくれた。これまで少し気が強そうな方だと思っていたのだが、どこか優しさがあるのは感じていたため、今日はそれが確信に変わった。

店を出るとき、店主の奥さんが「来週もまたレッスンね」と優しく言葉を投げかけてくれた。店主の奥さんのその言葉と店主の笑顔を見て、お礼の言葉と別れの言葉ぐらいインドネシア語で言えるようになろうと誓った。 インドネシアンレストランからの帰宅途中、早朝に考えていたテーマについて考えていた。それは、自分がこれから学者としてだけではなく、芸術家として生きることについてであった。

正直なところ、これまでの自分の経歴や成してきたことなどを考えると、学者として生きることも芸術家として生きることも、どちらもこれまでの自分とはかけ離れた生き方であることは間違いない。

だが、それはこれまでの自分であって、今の自分が希求する姿ではない。やはり、今の私は学術的な探究と芸術的な探究の双方に打ち込みたいのだ。

これは隠しようがなく、抑えようがない思いである。そして、究極的なところでは、学術的な創造と芸術的な創造が合致しなければならないと思う自分がいるのだ。

今朝は、学術論文のみならず、「日記的随筆」もしくは「随筆的日記」という表現活動に従事したいという自分の思いについて考えていた。早朝の考えでは、日記も随筆も芸術の次元にまで昇華することができるということであった。

今の私の中では、自分の中に思想を育み、それを「日記的随筆」もしくは「随筆的日記」という形式を通じて表現することに従事したいという思いがある。それらの表現形式を、独立した新たな芸術分野として構築しようとするのではなく、日記文学を築き上げてきた先人と偉大な随筆家からそれらの伝統を学ぶ必要があると思った。

とにかく、独りよがりな発想をするのではなく、新たな芸術分野を早急に打ち立てようとする暴挙に出るのではなく、とにかく今はこれまでの伝統を確固とした形で自分の中に取り入れたいと思う。

少なくとも、伝統の道の上を自分で一度歩き、自分がなそうとしていることがそれらの伝統とどのような関係にあるのかを明確にし、そこから自分の表現形式が持つ既存の伝統にないものが何なのかを冷静に把握していく姿勢が求められるだろう。

それを行うために、日本古来の日記文学作品や随筆作品に触れていきたいと思う。また、それは日本のものだけでなく、ある意味日記文学的なマルセル・プルーストの代表作『失われた時を求めて』や、ラルフ・ワルド・エマーソンの随筆的な全集を読むのはそのためである。2017/8/2(水)

No.30: From Discontinuity to Continuity Vice Versa I arrived at Bremen. Before getting there, I was watching railroads with my curious eyes.

When I was observing distant rail blocks from a window, discontinuity suddenly showed up. On the other hand, once I saw near rail blocks, continuity appeared all of a sudden.

This reminded me of a difference and differential equation; the former is for discrete sequences, whereas the latter is for continuous sequences.

More interestingly, if I tried to make my eyes follow the moving speed of the continuous rail blocks, they showed discontinuity. However, I could not capture a phenomenon between continuity and discontinuity.

It told me that the reality does not allow the in-between phenomenon. Unfortunately, I could not overcome the dualism of continuity or discontinuity. Tuesday, 8/8/2017

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