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1371. 真眼と死と魂


激しい雨が降り、晴れ間が見え、再び激しい雨が降り、晴れ間が見えるという運動が外の世界の中で繰り広げられていた。

夕方、その運動は落ち着きを迎えたようであり、今は世界が輝く太陽に照らされている。時刻は夕方の五時前を迎えているが、辺りの様子は昼のようである。

書斎の窓ガラスには、まだ雨滴が少しばかり残っている。その雨滴を通して眺めることのできる世界は、黄金色に輝いて見える。

目の前の木々が、さざ波のように通り過ぎていく優しい風に揺られている。書斎に置かれたバランスボールに腰掛けて外の世界を眺めるのではなく、食卓の椅子に腰掛けながら外の景色を眺めたいとふと思った。

より縦長な食卓の窓から、外の世界がよりはっきりと知覚された。夕方の爽やかでありながらもどこか一日の終わりに向かうあの侘しさを抱えた風が、目の前の木々を撫でるかのように通り過ぎていく。

その様子を何も考えることなしにぼんやりと眺めていると、そこに揺れる木々が奏でる旋律(メロディー)と律動(リズム)と和声(ハーモニー)を感じ取ることができた。これら三つの要素のそれぞれを感じる時、それら三つが全体となった一つのより美しい音楽を聴き取ることができたような気がしたのだ。

音楽とは、決してそれらの三つの単純総和ではないのだ。それらの部分が一つの有機的な全体をなし、音楽とは部分の総和を超えたものなのだということを知る。

ここで私は、部分の価値を貶めているわけでは決してない。部分は不可欠な存在なのだ。なぜ私たちは部分を丁寧に見ることがほとんどなく、全体を見ることが極めて稀なのはなぜなのだろか。

一体私たちは、日々の生活の中で何を見ているのだろうか?どうやら私たちは、大事なものを見る「眼」を喪失してしまったかのようだ。

それは単純に、自然が私たちに開示している諸々の真実に関するものだけではない。私たちは、自分自身に関する真実を見る眼が欠落しているのだ。

私たちは、いつまで義眼をつけたまま内側と外側の世界を眺め続けるのだろうか。一体いつになったら、自分の眼を持って内外の世界を生きることを始めるのだろうか。 先ほど休憩がてら和書を少し読んでいた。森有正著『バビロンの流れのほとりにて』である。

昨日か一昨日の日記の中で、ようやく「魂」という言葉が自己の存在と共鳴するようになり始めた旨の記述をしていたように思う。本書を読んでいると様々な箇所に「魂」という言葉があることに気づき、そのたびにその言葉を丸で囲っていた。

とりわけ、「魂と魂を結ぶ死」という言葉と「死を通して人々は本当に一つになる」というセンテンスが、妙に自分の内側に染み込んでくる。先週のある夜、就寝に向けて準備をしている最中、「人はやはり死なない」という言葉が咄嗟に浮かんできた。

肉体はもちろんいつか必ず朽ち果てる。だが、朽ち果てずに永遠に残り得るものが確かにあるのだということに気づかされていたのだ。

先ほどの私は、森先生の書籍を読んでいた。先生は自分が生まれる以前にこの世を去っていた。

しかし、森先生の言葉は、肉体の次元ではない場所に今も生き続けている何かがあるということを強く訴えかけているようだった。この感覚を言葉にするのはとても難しい。

何かを託すことによって、一つの魂と別の魂が結びつけられる時、そこには決して死ぬことのない人間の本質的な何かが存在しているように思えるのだ。それは決して、濁りきった今の目で見ることなどできはしないのだ。

それを見るための眼が必要であり、それを持って日々生きるということが、一人の人間として本当に生きるということを意味するのだろう。そうではないだろうか。2017/7/30(日)

No.16: A New Day A peaceful and vivacious day started again. Yet, I am wondering whether a new day really begins or not.

A day is an artificial unit of time. A day is not a discrete entity, but a continuous one.

Everyday is in a perpetual flow of ever-present moment. Sunday, 8/6/2017

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