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1355. 所有を超え、幸福感になるということ


昨夜は就寝前に、聞きなれない音が外の世界に響き渡っていた。それは鳥の鳴き声でもなく、何かがはじけるような音であり、それが絶え間なく聞こえていた。

寝室から外の様子を見ても、それが何かわからず、書斎の方に駆け寄って外を眺めてみると、それが花火であることがわかった。それに気づいたときには、ちょうど最後の花火が空に上がった後だった。

私は最後の花火が残した煙を静かな気持ちで眺めていた。七月も終わりに差し掛かったこの夜に、私は花火の煙を見た。

今朝は五時半過ぎに起床し、六時前から今日の仕事を開始させた。いつもと同じように、前日に見た夢についてぼんやりと振り返っていた。

昨夜も何かしらの夢を見ていたのだが、その印象は強くない。無理に夢の内容を思い出すことをせず、無意識の世界をそっとしておこうと思った。

無意識も顕在意識と同様に、様々な種類の変動性を持っており、昨夜はその変動性が安定していた。そのような時はそっとしておくのが一番であり、無意識もそれを望んでいるだろう。

書斎の中に、グレン・グールドが演奏するバッハの曲が高らかに鳴り響く。小刻みかつ足早に流れていく一連の曲が、自分の脳をくすぐる。

外はまだ静まり返っており、微風が時折通り過ぎていく。微細に振動する外の世界とは異なる意味合いで、グールドの演奏は微細な振動の波を発している。

自分の脳と全身がその微細な波に呼吸を合わせていく。まるで自分の存在が小刻みに踊っているかのようなのだ。

早朝の私は冷静に、もう一度昨日の事柄を振り返っていた。具体的な事柄ではなく、昨日の本質であった幸福感の凝縮についてである。

昨日は、途切れることのない幸福感の連続の波が、一つの大きな幸福感という大海を生み出し、私はその海の中にいた。濃縮された幸福感に絶えず包まれながらすべての事柄を眺め、そして感じているような一日だった。

幸福感の中にいるというよりも、自分が幸福感と一体となり、自己の存在が幸福感そのものであるかのような感覚が常に生じていた。自己の究極的な姿は幸福感に違いないのだろう。

幸福感は「所有する(have)」ものではなく、「なる(being)」ものなのだろう。幸福感は所有されることを待っているのではなく、なられることを待っているのだ。 今日はまず、毎朝の習慣である、カントの“Critique of Pure Reason”を数ページほど音読する。そして、次に取り掛かるのは、昨日半分ほど読み進めた “Complexity & Postmodernism: Understanding Complex Systems (1998)”である。

複雑性科学とポストモダニズムに関する、著者のシリアーズの洞察から得るものが非常に多く、彼の別の書籍もまた読んでみたいと思わせてくれる。その後、米国の哲学者かつ認知科学者でもあるジェリー・フォーダーの “The Modularity of Mind (1983)”を読み進める。

昨日の仕事を終える前に、本書の表紙を眺めたり、中身をパラパラと確認していると、昨年の春あたりに本書を少し読み進めていたことがわかった。

一読した箇所も含め、再度全体を通して本書を読みたいと思う。自分の精神の核を不動点とし、その核を通じて、今日も静かに読みに読み、書きに書く一日としたい。2017/7/27(木)

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