top of page

1342. ウィルバーの新著と固有の霊性


午前中、少しばかり眠たかったので、仕事を中断し、寝室に向かい、しばらく仰向けになって休息することにした。

確かに昨夜は思考が興奮状態にあり、寝つきが悪かったのだろう。そのせいもあり、午前中に仮眠を取り、仕事の速度をいつもよりゆったりとしたものにすることにした。

30分ぐらいの時間が経ったであろうか、突然、閉じられた瞼に白い強烈な光を感じて目を覚ました。寝室の窓から外を眺めると、光など感じられないほどに、空が雲で覆われていた。

白い閃光のような光を知覚する体験についてぼんやりと考えながら、再び書斎に戻った。すると論文を執筆することについて、少しばかり考えが前に動いた。

やはり論文は、探究したいテーマを自ら選び、探究対象の現象を解明したいという止むに止まれぬ衝動に基づいて執筆していくべきものであるため、そこに他者の視点を入れてはならないと思った。

真っ先に求められるべきものは、探究に伴う私的な喜びであり、対象の深くへ入っていく喜びの中で文章を建築していくということの喜びである。論文を他者のために書こうという考えや何かに直接的に役立てようとする考えは、単なる欺瞞だろう。

社会の進展や学術の進歩に繋がり得るというのは結果であって、そもそもそれを論文執筆の動機においてはならない気がする。動機の出発点は、徹頭徹尾自分の中になければならない。

動機の根源は、非常に私的なものでなければならない。でなければ、内側の止むに止まれぬ衝動に基づいて論文を書くことなどできないだろう。

自分の内側から湧き上がる、止むに止まれぬ衝動に基づいて書かれない論文は、時の重みに耐えることなどできはしない。それは一瞬で消え去ってしまうような密度しか保持し得ない。

そのような論文であってはならない。そのような文章であっては決してならないのだ。

自己をだけを見つめる。「利己的」でも「自己中心的」でもなく、自己超越的に自己だけを見つめながら論文を執筆することが何よりも重要だ。

他者を意識することは、表現の制約につながる。それを徹底的に避けなければならない。

仮眠を終えた後、ケン・ウィルバーの新著であるRTを読み進めていた。ロバート・キーガンの発達理論に対応させると、この書籍の中で詳細な記述のある段階6や段階7については理解が追いつく。

しかし、段階8や段階9になると、それは概念的な理解ですらも難しい。概念的かつ体験的な理解の遠く及ばない領域が、自分の前にそびえ立っていることを改めて知る。

高次元の段階特性について考えを巡らせていると、ウィルバーが本書で指摘するように、高次元へのアレルギーと高次元への中毒という二つのパターンが現代人の多くに見られるように思う。高次元の現象が、自己の概念的理解と体験的理解を凌駕している場合、そうした現象の存在を一切認めようとしないアレルギー。

一方で、高次元の現象が存在することを概念的に知った場合、それを盲目的に追い求めようとする中毒と、高次元の現象を一度体験として得ると、その味に酔わされ、一時的な体験に取り憑かれるという中毒。

大別すると、多くの現代人はこの二つのパターンのどちらかに該当するのではないだろうか。健全な霊性を持ち、そしてそれを育むためには、この二つの罠に陥ってはならない。

高次元へのアレルギーは霊性の排除に繋がり、高次元への中毒は霊性の偶像化に繋がる。霊性というのは排除されるものでも崇められるものでもなく、絶えず私たちのすぐそばにあるものなのだ。

というよりもむしろ、私たち一人一人は、固有の霊性であるということを思い出さなければならない。2017/7/24(月)

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page