今日は五時半に起床した。起床直後の空は薄い雲に覆われていた。朝日が差し込むことはなく、どこか神妙とした一日の始まりだった。
朝日が差し込む一日の始まりと朝日が差し込まない一日の始まりは、これほどまでに感覚的な差を自分にもたらすのだということを知る。起床直後、私は少しばかり戸惑いの感情にぶつかった。
それは、これまでの日々と同様に、読みに読み、書くに書くという一日を送ることに対してだった。そのような形で今日という一日をこれから送るということに、一瞬ひるむような思いだった。
しかし、起床直後の日課である身体運動をしながら、ゆっくりと身体を目覚めさせていると、私にはそのような毎日の過ごし方しかできないことを知る。読みに読み、書きに書くという日が今日もまた始まったのだ。
一瞬のためらいと一瞬の疑い。それらは自らの生き方を再確認し、方向付けていくために不可欠なものなのかもしれない。だが、このためらいと疑いの念を木っ端微塵にする形で進んでいきたい。
奇しくもそれは、昨夜の就寝前にも考えていたことであった。ためらいと疑いが生じる背景には、やはり今の私がまだ論文を書くことの理由と意味を明瞭なものにしていないからだろう。
読みに読み、書きに書くというのも、全ては論文の執筆につなげていくためのものである。確かに、読みに読み、書きに書くということの背後には、論文執筆以外にも、純粋にそれらの行為への没頭を大切にしているということがある。
だが、自らの仕事が何かを考えた時、それらの行為の産物は、やはり論文なのだ。行為の産物としての論文の意味、そして論文を書くことの意味をより明瞭なものとしたい。
行為と産物との間には、まだ薄い靄のようなものがかかっている。その靄が晴れ渡るように尽力したい。
そのためには、書きながら何かを見つけていくという意思と書きながら何かを掴んでいくという意思が不可欠となる。それしか方法はないだろう。
論文の意味を見出したければ、論文を書くのである。論文を書くことの意味を見出したければ、論文を書くのである。
今の私はまだ、自分の内側にあるとめどなく沸き立つ熱情を持って論文を書くことができていない。それが今の私の最大の問題であり、最大の課題である。
小説家の辻邦生先生は、小説そのものの存在意義、そして小説を書くことの意味を生涯にわたって考え続けていた。辻先生が小説家として最初の作品を世に送り出したのは、三十代も終わりの頃だった。
三十代の前半、辻先生はパリで四年間の時間を過ごした。その期間は、小説の存在意義と小説を書くことの理由を見出すためだけの時間だった。
絶えず考え、絶えず書くことを通じて、自分なりの確信めいた意味を掴み、それ以降も、掴んだ意味すらも絶えず脱構築していく過程を通じて、作品をこの世界に創出し続けた辻先生の姿には多大な共感と打たれるものがある。
辛抱の時期。耐えに耐え、耐えに耐える中で、自らの仕事の意味を掴もうとする時期。論文の存在意義と論文を書くことの理由を見出すことがいかに難しかろうが、その課題と真正面からぶつかりたい。
向き合うのではなく、全存在をかけてぶつかりたいのだ。課題を乗り越えるのではなく、課題を打ち壊し、また新しい課題を自ら創造してくのだ。
何としても、何としても明瞭な意味を形作り、それを掴みたい。意味を形作ろうとしない者に、意味など見えはしない。意味を掴もうとしない者に、意味など掴みようがない。
意味への渇望と意味への意志を絶えず持ちながら毎日を生きること。今の私にできるのは、本当にそれしかない。
この一度限りの人生において、今の私が欧州で日々を送っているのは、この課題と真正面からぶつかるためなのだ。何からどのように手をつけていいのか一向に分からない状態が続くが、それでも今日もこの課題にぶつかっていく。
そうした気概と気骨さに満ち溢れた一日にしたい。2017/7/24(月)