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1316. 最後の砦の前で


世界が透き通って見えるような朝だった。早朝目覚めてみると、身体に澄み渡る感覚が走り、その感覚によって、取り巻く世界が輝く透明性を持っているように知覚された。

昨夜の就寝前、ベッドの上に横たわっていると、瞑想的な静けさの中で私は自分自身を見つめていた。時折小鳥のさえずりが小さく聞こえた。

その鳴き声さえも無音の空間世界に溶け込んでいってしまうような環境。こうした瞑想的な静けさは、私が最も大切にしているものだ。

これからの人生において、このような空間世界が周りにあるか否かが、生活拠点を決定する指針となるだろう。一切のものが溶け込んでしまうような世界の中で、私はこれからについて少しばかり沈思黙考していた。

やはり私は当分日本に戻るつもりはなく、また戻れないのだとわかった。戻るというのは生活拠点を置くという意味であり、当分というのは数年か数十年なのか、これについては定かではない。

ただし、自分が日本に戻ってはならない理由だけは明確だ。欧州での生活を始めてからも、人生を閉じる前の10年間は日本で過ごしたいと思っていた。

しかし、昨夜の私の考えはもはやそのようなものではなかった。日本か国外という地理的な問題ではなく、自らの霊性が涵養され、活かされる場所がそこにあるかどうかが重要だった。

これはひどく自己中心的な見方かもしれないが、残念ながら母国は自分の霊性を緩やかに育んでくれることはあったとしても、それを真に発揮できるような場所ではない。皮肉なことだが、自らの霊性を発揮しながら母国に関与するためには、母国の外にいなければならないことを痛感させられる。

結局今の私は、母国に関わりたいのだと思う。そうであるがゆえに、母国に戻ることを決意するというのは、自らの霊性をかけて母国に関与することを放棄した時なのだということを改めて理解した。

だから母国に戻れない。だから母国に戻る気がない。それが今の自分の正直な思いだ。

晴れ渡る早朝の空に、数羽の鳥が自由に飛び回っている。遠くから見ればそれは小さな蝶であり、近くから見ればそれは立派な鳥である。

それらの鳥たちは、透明な世界の中で自由に飛び回り、そして透明な世界のどこかに消え去った。 昨夜の瞑想的な静けさの中、最後に取り上げていたのは母国語の使用に関する問題である。毎日毎日、私が母国語で日記を書き留める行為は、自分の中で死守せねばならない最後の砦の前に立つことを意味しているようだった。

自らの言語を司る魂を英語に売ることができたら、どれほど楽なことだろうかといつも思う。だが、それは絶対にしてはならないことなのだ。

自らの探究をより深く推し進めてくれるのは、間違いなく英語である。実際、自分の仕事としての研究活動は、全て英語空間の中で行われる。

それを考えた時、母国語を放棄して英語の世界に全てを投入することがいつも魅力的に映る。だがそれに魅了されるのではなく、私はそれに抗いたいと思うのだ。

それを実現する唯一の手段が日記だった。昨夜の瞑想的な静けさの中で浮かんでいた心象風景は、断崖絶壁に立ちながら日本語で日記を書いている自分の姿だった。

死の直前まで日本語で日記を書いている自分の姿だった。最後の最後まで、母国語で日記を書き続けることを切に願っていた。

それは、生涯を閉じる前の唯一の願いであるかのように思えた。2017/7/18(火)

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