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1288. 内外世界の共創造と共発達


連続的な波の流れが途切れ、非連続的な波の隙間に入り、再び連続的な波の中に組み込まれたような感覚があった。今朝の起床直後の気づきを一言で表現するとそのようになる。

これまで自分の内側で連続していたものが途絶え、新たな連続性を持つものに自分が組み込まれたことを知る。発達とは連続的であり、なおかつ非連続的なものだということを、自ら自身で直接体験するような出来事だった。

それは小さな断絶と新たな継続を体験するようなものだった。一つの発達の波から新たな発達の波に移行する瞬間には非連続的な飛躍が伴う。

まさに今朝の私は、非連続的な飛躍の最中における一瞬の溝を知覚し、そこから新たな波の中に組み込まれた自分の存在を知覚することができた。幾分不可思議な現象であり、それをうまく説明できたが自信がないが、自らの直接経験を純粋に表現すると概ねそのようになるだろう。 ある夏の火曜日の早朝。何が変わったのかわからないが、昨日とは全く異なるような世界が今この瞬間に広がっているという認識を持った。本当に何が変わったのかわからない。

寝室も書斎も昨日と全く同じであるし、それらの部屋から見える外の景色もこれまでと同じであるように見える。だが、それらの全てが明らかに昨日と全く違う感覚で捉えられているのだ。

目に見える景色は全く同じでも、それを知覚し、一つの感覚として捉える自分の内側が一変してしまったかのようなのだ。「あぁ、自分は次に進む時が来たのだな」という言葉が自然と漏れた。

昨日までの自分にはもはや戻ることはできないという事実を突きつけられながら、同時に、私は次に進む時がこの瞬間にやってきたのだという事実も突きつけられていた。それは望むと望まぬとにかかわらずやってきた。

突然事故に遭うかのように、突然死に直面するかのように、それはこちらの意思とは全く関係のないところからやってきた。昨日の自分と今日の自分を比較した際に、結局何が変化したのかというと、それは内側の感覚だと言えるだろうし、世界を認識する枠組みだと言えるだろう。

両者をさらに別の表現で言い換えれば、昨日の自分を取り巻く薄い層の上に、また別の自分が薄い層として立ち現れている感じだと述べると分かりやすい。この自分から今この瞬間の世界を見渡してみると、やはり全てが新しいものとして知覚される。

昨日までには見落としていた無数の差異が、今この瞬間の世界の至るところに充満していることがわかるのだ。それは内側の世界が一変すると同時に、外側の世界すらも一変してしまったかのようである。

そのようなことを考えると、内外のリアリティというのは相互連結し、両者は共創造し、共発達することが手に取るようにわかる。そのような気づきがもたらされたのが、今朝の起床直後の出来事だった。2017/7/11

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