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1278. 「懐疑」のための方法論の形成へ向けて


早朝の雨から一転して、午後からは晴れ間が広がった。雨の影響もあってか、少々湿気が多いように感じる。

オランダでの生活を送りながら、今から400年近くも前にオランダで生活を送っていたデカルトの日々の探究姿勢に思いを馳せていた。森有正先生の書籍を午前中に読んでいると、デカルトがオランダにやってきたのは、窮理の解明に徹するために必要な静寂さを求め、静寂さの中で、世の福祉に資する学術的方法体系の樹立にあったことを知る。

デカルトは、徹頭徹尾、静寂さの中での自己開発に努め、そこで獲得された認識と認識方法を世界に共有することを一つの使命として掲げていた。デカルトの言葉一つ一つに、実存的熱気を感じ取ることができる。

これは広く知られたことかもしれないが、デカルトは形而上学的な探究のみならず、物理や医学などの幅広い自然科学領域の探究を進めていた。デカルトは、そうした自然科学の探究の成果を公にしないことは人類に対する害悪であるとみなし、科学の探究に関して共同性を絶えず強調していた。

自己探究や自己開発と並行して、科学的探究の末に得られた知見を公の知にしていことするデカルトの姿勢に、改めて大きな感銘を受けた。森先生の『デカルトとパスカル』をこれまで開くときは、一章だけ読むようにしていたのだが、今日は熱に浮かれて二章ほど読み進めた。

二章を読み進めた後、書斎のソファの腰掛け、天井に向かって頭を持ち上げながらしばらく目をつぶっていた。すると、意識が完全に無くなり、夢を見ない深い意識に参入していた。

20分後、その世界から戻ってきた私は目を開けた。その間に起こっていたのは、無の世界の中にいることだけである。

デカルトは、思考即存在を提唱したが、思考すら存在しない世界の中にいた私は、果たして存在していたと言えるのだろうか。思うことによって存在するのであれば、思うことが介在しえないその時の私は存在していなかったことになるのだろうか。存在の謎は深まるばかりである。

これまで私は、存在の問題と経験的にぶつかることが多くあったが、その時にいつも私は、存在に対する漠然とした疑いしか持っていなかったことに気づかされる。デカルトが「懐疑」という方法を採用したのとはまるっきり異なっている。

デカルトは、対象を漠然と疑うのではなく、全ての対象に対して方法的に思考することを自らに課していた。そこには精神の厳密な方向付けと、精神の厳格な操作があった。

これから私は、対象を漠然と吟味するのではなく、自分なりの方法論をもってしてそれらを吟味していかなければならないだろう。先ほど私を襲った無の世界への参入に関しても、いったい自分は何度これを経験すればいいのかわからないぐらいに、この経験を通じて何も得ていない。

それはひとえに、その出来事が方法論の欠如による惰性的体験に成り果ててしまっていたからだろう。そのように考えると、方法論の形成は急務であるが、それは一夜にしてならずであることを肝に銘じておかなければならない。

夕食後からの仕事もそこに向けた一つの礎としたい。2017/7/8

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