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1275. 夢と現実が織りなす一つの現実世界


昨夜はいつもより早めに就寝し、今朝の起床はとても清々しかった。早朝の天気は曇りであったが、私の精神は晴れ渡っているかのようであった。

やはり10時前に就寝するというのは、自分に最も合った生活リズムなのかもしれないと思う。昨夜も少数のまとまりを持つ夢を見た。

しかしながら、断片的な記憶をたどってみると、内容としてそれらは書き留めておくに値しないように思える。旧友と一緒に瀬戸内海の海辺を歩く夢であり、そこであれこれ話を聞くような内容を持つ夢。

そして、海の家からどこか別の場所にバスで移ろうとするような夢であった。ある時から夢を意識的に書き留めようと思うようになり、それ以降、夢を夢として片付けない自分、つまり夢を現実の一つの側面としてみなす自分が強くなりつつある。

夢というのも時間や空間と同じであり、言葉によってリアリティのある側面が切り取られたものであり、切り取られた末に同定される一つの現象に過ぎない。ここで私は、それらが言葉によって同定される前のリアリティそのものに帰ろうとするような試みを仕掛けている気がしてならない。

もう一度、言葉以前のリアリティに立ち返ろうとする衝動が、自分の内側に確かに存在している。こうした立ち返りを継続していると、夢が夢以前の状態に帰っていくのがわかる。

すなわち、夢が元々の大きな全体のリアリティに編み直されていくのがわかるのだ。そのおかげもあってか、今は夢と現実を無意味に区切ることなく、有意味に同一化させることによって日々の現実世界を生きているように思える。

昨夜の夢の中のイメージや感覚が、今この瞬間の自分の内側に再想起され、それが自分の脳内に刻み込まれていることからも、それらが一つの大きな現実世界の中の出来事であったことに変わりはない。夢の出来事も現実の出来事も、この一つの大きな現実世界の中の出来事なのだ。 昨日の午前中は思考が明瞭であり、集中して随分と多くの文章を読むことができていたように思う。その中で、人は死を送らせようとするくせに、成長を早めようとするという逆説について考えていた。

到来を遅めようとするものと到来を早めようとするもの。どちらに対しても、私たちは不必要な介入をしがちであり、明確な態度を持って待つということができないようだ。

人間は、自らを取り巻く多くの逆説に無知であり、逆説の中を生きることを宿命づけられているのかもしれない。ただし、夢と現実の逆説的な関係から離れ、さらに一つの大きな関係性の中で夢と現実を捉えることが可能であるように、死と成長についても同様のことが行えるのではないだろうか。

また、私たちはそれを行う必要があるのではないだろうか。つまり、死と成長を対置させるのではなく、それを一つの大きな関係性の中で捉えるのである。

そもそも、死と成長の間に横たわる不可分の関係性に気づけないがゆえに、死を無理やり送らせようとしたり、成長を強引に早めようとするような暴挙に出るのではないだろうか。夢から覚めるというのは、夢から現実に戻ってくることを指すのではない。

夢と現実が織りなすさらに大きな一つの現実世界に気づき、それに参入することを意味するのだ。死と成長についても全く同様の認識変換が必要に思える。2017/7/8

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