1268. 数年後の活動と今日の活動


専門書を読んでは取り留めもない考えが頭をよぎり、それを文章に書き出しては、また専門書に戻り、そして再び自分の取り留めもない考えと向き合うようなことが絶えず繰り返されていく。

自己から離れ、自己に向かうという、自己からの離反と接近の永劫的な繰り返しの中で人は生きていくことを宿命づけられているのかもしれない。そのようなことを思っていると、昼食の時間が迫ってきていることに気づいた。

今日は五時半の起床からここまでの間、普段と同じように文章を読み、そして書くということを絶えず行っていた。その際に思い浮かんでいた取り留めもない考えとして、ハイデガーの “Being and Time”とプルーストの “In Search of Lost Time”をゆっくりと読みたい、という思いが湧き上がっていた。

二つの書籍に対して、解析的かつ実存的な読みを試みたいと強く願う自分がいる。後者の書籍に至っては、私はまだ所有してもいない。

以前偶然にも、米国のある大学の哲学科に、ちょうどこの二冊の書籍を取り上げたコースがあることを知った。一つは“Being and Time”を精読する形でハイデガーの思想に迫り、もう一つは “In Search of Lost Time”を精読する形でプルーストの思想に迫っていくとういものだ。

そのようなコースがあることを偶然知った時、私はなぜだが、自分がその大学に数年後在籍しているかもしれないという思いに捕らえられた。数年後、その大学で私はもしかしたら、これらの二冊の書籍を精読するような機会を得ているかもしれない。その日が本当にやってくるような予感が今からするのだ。 ゲラルド・ヤングの分厚い書籍を一通り読み終えた後、私は休憩を兼ねて、埴谷雄高著『死霊』を読み始めた。この小説も非常に分厚く、900ページほどの内容を持つ。

毎日この小説を読んでいるわけではないが、この小説を開く日には、必ず一章ずつ読むことにしている。今日は第六章を読んだ。

本章の中に、とんでもない言葉が所々に散見され、それらに出くわすたびに、私は立ち止まってその箇所を注意深く読んでいた。自己の存在について、自分では生み出しえない表現で記述される文章を読むたびに、一歩先に行く者に対する深い共感の念を持った。

共感に満ちた気持ちで文章を読み進めていると、ふと、現代社会に向けて何かを書くことはあっても、現代社会に迎合する形で何かを書くことはない、という思いが自分の内側から滲み出てきた。これは折を見て湧き上がってくる思いではあるが、今日のそれは、改めて自己の方向性を見定めるようなものであった。

午後からは、再びヤングの書籍を読み、納得のいくところまで読み進めることができたら、出版記念ゼミナールに向けた資料作りに取り掛かりたいと思う。これは、一昨日から楽しみにしていた創作行為である。2017/7/6

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