第二弾の書籍『成人発達理論による能力の成長』について、改めて振り返っていた。昨日は、本書の出版を記念したゼミナールに向けて、説明資料を作成しており、その過程で本書の全体を再び自分で読み返すことをしていた。
中でも、第五章の中で取り上げた「リフレクション」について、また異なる観点から考えていた。本書では取り上げることはなかったが、内省能力の成長に関しては、パトリシア・キングとカレン・キッチナーの研究が最も有名だろう。
内省能力の成長について、二人が提唱した七つの段階モデルは、私自身、米国の大学院に留学していた際によく参照していた。七つの段階について一つ一つ説明することをしないが、現在の日本を取り巻く内省実践を眺めてみると、七つの段階特性をまた異なる観点から分類し直すことができるように思える。
具体的には、日本を取り巻く内省実践には四つの段階が見られ、多くの人は最初の段階かその次の段階の内省実践をしているのではないかと思う。最初の段階は、最もシンプルなものであり、それは内省を全くしないという段階だ。
あるいは、内省の実践方法がわからなかったり、内省の機会がなかったり、内省を行うことができないような段階だと言い換えることもできるだろう。その次の段階は、内省のワークショップなどに参加し、形だけの振り返りを行うような段階である。
この段階については、本書の中でも取り上げていたように思う。つまり、内省というものを単なる感想報告で終わらせてしまうような傾向を持っているのが、この段階の特徴である。
もちろん、振り返りを全くしないという最初の段階に比べれば、振り返りをする分、この段階の内省実践は、自らの内面の成熟や能力の成長に少なからず貢献をしてくれるだろう。しかし、本書の中で指摘したように、この段階の内省実践は、真の意味での内省ではない。
日本の内省ワークショップに参加したことのある知人から話を聞くと、それが単なる感想報告会になってしまっているというのは、まさにこの段階に留まる形で内省実践が行なわれているからだろう。この段階を経て初めて、内省実践と呼ぶにふさわしい内省が行なわれるようになる。
それは、「自分はこの体験から何を学んだのか?どのような気づきや発見があったのか?」という単なる振り返りを超えたものである。認識論者かつ発達心理学者でもあったジャン・ピアジェの言葉を借りれば、「内省的抽象化(reflective abstraction)」を伴う内省実践が行われるのが、三つ目の段階の特徴である。
この段階の内省実践は、自己の認識の枠組みそのものや意味構築装置そのものを検証する特徴を持つ。例えば、「この体験から学んだ〜は、自己のどのような認識の枠組みからもたらされたものなのだろうか?この発見を重要だと思った、自分の思考の枠組みの特性は何か?」というような問いを自らに投げかけるような特徴を持つ。
さらには、自らの思考の枠組みの特性に気づくことだけではなく、それを批判的に捉え直すことを促すような問いを自らに投げかけていくような特徴を持つとも言える。要するに、単に自己の認識の枠組みや意味構築装置の存在に気づくだけではなく、それそのものを変容させていくような批判的問いを自己に投げかけることができるような段階なのだ。
内省を取り巻く日本の状況を見ていると、この段階の内省実践を行っている人はほとんどいないだろう。実は、さらにもう一つ内省段階があり、その段階を通じた内省を行っている人は皆無だろう。
最後の段階においては、自己の認識の枠組みや意味構築装置そのものが何に立脚しているかを問い、それらが必ず社会の文化的かつ制度的な枠組みに影響を受けていることに気づき、そうした社会的な発想の枠組みや制度そのものを批判的に検証するようなことがなされる。
私たちの認識や意味構築活動は、絶えず社会の思想や制度と相互作用をしている。最後の内省段階で待っているのは、自らを呪縛するそれらの社会的な発想や仕組みに自覚的となり、それらを批判的に検証することを通じて、新たな社会的な発想の枠組みや制度の確立に向けて行動を取ることである。
内省というのは、自分の頭の中だけで完結するような実践ではなく、真の内省実践は、社会に積極的に関与したものだと言えるだろう。そうした意味において、上記で紹介した最後の段階の内省実践こそが、真の内省だと言えるのではないだろうか。2017/7/4