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1240. 人間関係と自己弾力


今日は、予定していた仕事にほとんど着手することなく、“Microdevelopment: Transition Processes in Development and Learning (2002)”を読み続けていた。昨日、ステファン・グアステロ教授の書籍を読み通したのと同様に、今日もこの一冊を読み終えた。

七月末から始まるオンラインゼミナールを終えたら、このような形のゼミナールはしばらく開講しないようにしようと思っている。それは諸々の理由によるが、仕事への意味付けとその進め方に関する理由が最大のものであることを書き留めておく。

第二弾の書籍には記載することのできなかった内容や論点を補充するために、上記の書籍は非常に参考になる箇所が随分とあった。第二弾の書籍の内容をさらに肉付けするためのエクササイズのいくつかは、本書の中の記述を参考にすることになるだろう。 夕方、人間であることを諦め、そこを通過する形で真に人間として生きたいという気概が湧き上がってきた。今日は、自分の中から自発的に現れる問いの質感やそれに対する回答の質感が、激しく変動するような一日だった。

今日という一日の中で、私は諸々のことに対して諦めの気持ちが生じた。とりわけ今の自分を取り巻く人間関係について、諦めの気持ちが混じった「整理」という名の行為に踏み切る必要性に迫られているように思った。

少しばかり苦渋の決断であったが、人間関係というものを捉え直さなければ、もはや前に進めないような気さえしていた。この世界で生きていく上で、そしてこの世界に関与していく上で、人との関係性以上に重要なものはないかもしれない。

だが、「人との関係性」という意味をもう一度自分の内側から捉え、偽りの人間関係を結び続けることだけは断固として避けなければならない。

ここ最近、人間関係について、自らの行為や発言の軽薄さに対して自己嫌悪に陥り、また他者の行為や発言に対して不必要な動揺をもたらされることがあった。特に今日は、そのようなことを思わされることが多かった。 夕食前、日々の精神活動の大部分は他言語でなされるがゆえに、私は日本語を内から外に弾き出す必要性に迫られていることを知った。それによってなんとか自己の存在を保つことができていることを知ったのだ。

同時に、自分がこのような形で言語と付き合い、このような精神活動を一生涯にわたって続けていくのだということも強く自覚した。逃げるでも立ち向かうでもなく、ただ受け入れることしかできなかった。

他言語によって自己の精神が圧迫されればされるほど、自己が弾力的な姿を見せる。日本語が弾け出るというのはまさに、そうした私の精神の有り様を見事に映し出している。

母国語以外の諸々の言語体系の中で精神生活を営み続ける際に、仮に自らの内側から日本語が弾け出てくれなければ、私はもはや自分自身が存在できるのかどうか自信がない。2017/6/30

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