1239. この夏、無の世界の淵から


目には見えないものと向き合い、それと格闘し、それと調停し、それとの関係の中で営まれる日々が淡々と過ぎていく。バッハの曲が書斎の中をコツコツと歩いていく。

その姿は、まるで異なる世界から降ってきた聖者の行進のように思える。昼食を摂り、先ほど少しばかり仮眠を取っていた。

仮眠の最中、夢を見ない深い眠りの意識の中に私はいた。そこは、「漆黒の意識空間」と形容できるような世界であり、全てのものがそこに溶け込んでいくかのような空間だ。

同時に、そこは全てのものが生まれうる空間だとも表現できる。その世界の中にいたはずの私と、今この瞬間に文章を書き留めている私との接点を見失った。

両者の間に存在するはずの連続性が、今の私には見えない。仮眠を取る前の私は、どうやら夢を見ない深い眠りの意識の中に溶け込んでしまったかのようであった。そこである種の自己断絶が起こり、失われた自己を求めるかのように、先ほどの睡眠中の自分について今振り返っている。

本当に、夢を見ない深い眠りの意識の間中、私たちには何が起こっているのだろうか?あの世界の中で、自己は確実に遮断され、あの世界から帰ってくると、再び自己が何食わぬ顔で存在していることが本当に気になるのだ。

私は今、「遮断」という言葉を使ったが、この概念そのものを別の概念に変容させる必要に迫られているのかもしれない。確かに、自己が何も存在せず、全てのものが生まれうる無の世界の中に溶け込んでいく感覚、あるいはそれと一体化する感覚があったとして、それを「遮断」と安直に表現するのは問題があるかもしれない。

では、これは何と表現すればいいのだろうか。その世界の中にいる時から、目覚めがもたらされた瞬間までを振り返ってみると、それはもしかすると、自己そのものが持つ虚偽性がもたらす現実感との接触と表現できるかもしれない。

ここで述べている現実感とはまさに、自己の存在が無の世界の中にあっても存在しうるという感覚であり、私たちの自己は絶えずその世界に立脚する形で生きているという感覚である。 バッハの音楽が、自分の肉体を離れた精神の頭をくすぐるように流れていく。精神の頭に触れずとも、頭をくすぐっていくバッハの音楽は、やはりこの世界の人間が創出したものとは思えない。

この二ヶ月間の休暇を通して、私はまずここで、自己を完全に無の世界の中に溶解させるところから、歩みを始めていかなければならないのかもしれない。

その世界の淵から帰還できるか否かが問題なのではなく、深淵の極地にあっても、この自己を通して生き続けることができるかが問題なのだと思う。2017/6/30

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