1230. 久遠の世界から


凛とした早朝の世界は、朝もやで覆われている。書斎の窓から見える木々の葉は、風に揺られることもなく、静止画のように動きを潜めている。

そんな中、葉が少し揺れたと思ったら、それは小鳥の仕業であった。普段あれだけ美しい鳴き声を発している小鳥たちも、今日は鳴くこともなく、淡々と生活を送っているようだ。

書斎の窓の付近を、一羽の鳥が過ぎ去った。何らの鳴き声を発することもなしに。

時刻は朝の六時を過ぎたところだが、自転車で通勤に向かう人たちをちらほら見かけた。森閑とした世界の中で、一瞬一瞬過ぎ去っていくものが確かにある。そんなことを思わせる早朝だ。 昨夜は就寝前に、自己の存在を疑う感覚にまたしても見舞われた。これは、自己の虚偽性を目の当たりにする感覚と言い換えてもいいと考えていたのだが、どちらの表現も正しくないように思え始めた。

自己の存在を疑う感覚や自己の虚偽性を目の当たりにする感覚というよりもむしろ、自己の存在の儚さを確かな実感を伴って認識する感覚、と言い換えた方が正確かもしれない。

また、ここで言っている「儚さ」という言葉にも特別な感覚が内包されている。それは否定的なものではなく、自己の重みのようなものが伴っている。

自己の存在が、それがいかに短い間であろうとも、この世界に確かに存在しているという感覚と、その期間が極小であるがゆえに、それは存在していると見なせるのかわからないという感覚のどちらもが同居している感覚なのだ。

起床直後に開けた窓の隙間から、ようやくいつものように小鳥の鳴き声が聞こえ始めた。まさに、小鳥の一度限りのさえずりは、確かに私に重要な意味を持つものとして存在していながらも、それが私の世界の中で一瞬に過ぎ去っていくものであるがゆえに、それは私の世界に存在していたと言えるのかどうかわからない感覚というのが、ここで述べている話と近い。

就寝に向けてベッドで仰向けになっていた私は、自分の人生が限りなく大きな時間感覚の中で捉え直され、数千年単位の長大な時間から見れば、私の人生は極小点であり、その点は存在しているのか否かについて明確なことは言いがたいという感覚なのだ。

デカルト座標において、点は面積も体積も持たないがゆえに、点は存在していないとも言えるが、存在しているとも言える、という議論がなされるのと似ている。そうした空間的な観点かつ時間的な観点からも、自己の存在を検証しようとする眼が突如として現れたのが、昨夜の出来事である。

この出来事は、特に欧州で生活を始めてから頻繁に起こる。未だこの体験を明瞭に語る術を持たないが、この体験が持つ意味と私に伝えようとしている事柄を紐解いていかなければならない。

なぜなら、この体験には、精神や魂と呼ばれるものを持つであろう自己の諸々の謎を解き明かす重要なカギが隠されているように思うからである。 静止画のような景色が少しばかり揺らめく光景を見た。静から動へ変化する世界を眺めるとき、この世界そのものは、もはや静から動を超えた何ものかであることを知る。

無限大に近い空間と時間が同居する久遠の世界から、自己という一点を透徹な眼差しで見つめている感覚こそ、昨夜の私が経験していた感覚だ。2017/6/29

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