1219. 調停者と意味の喪失感


自分の無能さと無知さを日々感じながら、自らを無能かつ無知な人間だと思おうとする自分と、そうした思いは無駄な思い込みであると思う自分が同居する中、これら二つの自分の折り合いのさせ方に苦心する自分が存在しているのが見える。

当の本人である私は、この折り合いをつけようとする自分の苦心さに影響を受けやすいことに気づく。最初の二つの自分は確固たる不動心のようなものを備えており、各々の考えを譲ることをしない。

両者の考え方は、確かに極端な発想かもしれないが、この対極的な考えを失ってはならないような気がしている。そのように考えると、対極的なものに折り合いをつけようとする自分の存在が、一見すると真っ当な調停者のように見えるのだが、冷静に考えてみると、少しばかり不必要な存在に思えてきたのである。

おそらく自己の全ての側面に何かしらの意味が内包されているであろうから、「不必要」という言葉は、少し語弊があるかもしれない。だが、その存在が持っている意味の度合いというものは薄く、対極的な二つの存在を統括するような役割を果たしきれていない。

おそらく今の私に求められるのは、この調停者としての自分を消し去ることではなく、この存在を育み、さらに成熟した調停者に変容させることだろう。つまり、活動の原動力を生み出すかのような両極の自分を共存させることを可能にする存在を新たに生み出していく必要があるようだ。

そのようなことに思いを巡らさざるをえなかった。 昨夜の就寝前と今朝の起床直後において、日本社会への関与の仕方を考えている自分がいた。正直なところ、自分が日本語で書籍を書く意味などあるのだろうかという疑問に突き当たっている。

この疑問を生み出している原因は、私の内側にあることは間違いないだろうし、私の行動の至らなさにあるだろう。だが、書籍を執筆するにせよ、いっその事、それを英語で行うことの方が意味があるのではないだろうか、という思いに揺らぐことが多々ある。

学術論文の執筆に関しては、この問題は自分の中では完全に整理されている。それを日本語なそうという思いは一切ない。

だが、広く多くの人に人間の成長や発達に関する知見を共有する際に、それが日本語でなされることに少しばかり疑義を挟む自分がいるのだ。おそらく、日本語空間の中に、人間の成長や発達に関する知見を共有していくことは何かしらの意味があるのだと思いたいが、その思いを妨害する気持ちの方に振れることがしばしばある。

人間の成長や発達を取り巻く日本の現状を見るにつけ、それは大きな問題意識を私に投げかけるのだが、そうした問題意識や危機意識に押し潰されそうになる自分がいるのだ。そして、それがある種の諦めのような気持ちを自分に引き起こすことがある。

この諦めの気持ちを超克していくような自分に変容していくためには、やはり冒頭の無能さと無知さに関する問題を乗り越えていく必要があるだろう。何ともしがたい気持ちを抱えながら、午前中の仕事を開始したいと思う。2017/6/26

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