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1160. これから生まれる自分と仕事の社会性


自分が70歳を迎えた時に、この世界においてたくさんの新生児が生まれてくる、という当たり前のことに思いを馳せた。仮に、今の自分が想定している寿命まで仕事を継続させることができるのであれば、その時の自分から逆算すると、私はまだ生まれてもいないことに気づく。

「そうなのだ、私はまだ自分の仕事をするということに関して生まれていないも同然なのだ」という気づきを改めて得た。昨日の日記で書き留めていたように、後八年間ほどの準備期間を自分に与えようとしていたのはまさに、この気づきと密接に関係していたのである。

人生を終えるその日まで自らの仕事を継続させていくための、極めて重要な準備期間が今からの八年間なのだ。学びや探究というものが、一生涯にわたって行われるべきものであることは否定のしようがない。

そうした意味において、八年後から人生の最後の日に向かっても、学びと探究の日が続くことは明らかである。しかし、今からの八年間は、そこでの学びと探究の質を決定づけるような基盤を形成する時期なのだと思う。

この基盤を形成することなく、来るべき日からの仕事を行っても意味はない。とにかく、修練に修練を重ね、準備に準備を重ねるような冬の時代を、少なくとも後八年間ほど継続させたい。

自分の中で仕事や探究が真の意味で開始されるのは、その期間が過ぎてからである。それを迎えるまでに自分が成し遂げたことや成し遂げようとしていることは、常に徹底的に否定されなければならない。

こうした否定こそが、さらなる修練と準備に私を駆り立て、その日に向かって着実に歩みを進めることを可能にしてくれる。そのようなことを昼食後に考えていた。

この考えは、自らの仕事が持つ社会性について考えていた昨日のテーマとも重なるように思える。昨日は、芸術家、科学者、哲学者などの仕事が持つ社会性について考えを巡らせていたのだが、その時には何も文章を書き留めることをしなかった。

得てして、彼らの仕事が真の意味で社会性を帯びるのは難しい。間違っても、彼らが具体的な社会運動に参画することが、彼らの仕事の社会性だと混同してはならないだろう。

芸術家、科学者、哲学者などの仕事が真の意味で社会性を帯びるというのは、彼らを捉えて離さない究極的な問いを探究する過程で滲み出てくるものなのだと思う。一見すると極めて個人的なものに思える主題を愚直に探究していく中で生み出された一つ一つの仕事の中に、真の社会性が宿るような気がしてならない。

そうしたことを考えると、真の意味で自分の仕事に社会性が帯びるためには、今の私を捉えて離さない中心主題を探究し続けることが何よりも重要なのではないかと思った。個人の仕事に社会性が帯びるということの意味については、より深く考えていかなければならないだろう。

なぜなら、そこに自分が仕事に取り組む究極的な意味が潜んでいるように思えるからである。2017/6/11

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