書斎の窓から外を見ると、実に平穏な世界が広がっているのが見えた。ほのかな太陽光が辺りに降り注ぎ、動植物たちが各々のなすべきことに従事している姿が見える。
目の前の通りを歩く通行人は少なく、車もほとんど走っていない。少しばかり日記を書く手を止めて、窓の外に広がる景色をぼんやりと眺めていた。
その間、街路樹の木々を揺らす柔らかな風の音さえ聞こえてくるような静けさが、そこに漂っていた。そうした静けさに彩りを加えているのが、様々な種類の小鳥たちの鳴き声であった。
しばらく自然の景色と音色に浸っていると、一台のバイクが通りを走り去った。特にそれを不快と思ったわけではないが、それを合図に、私は再び書斎の机に向かった。 早朝から抱えていた脳の鈍重さが消えない。だが、早朝の時と比べてそれは軽くなり、むしろそうした感覚によって、私は黙想的な意識を維持できているかのようであった。
自分の内側に静かに深く入り込んでいく意識の中で、私は昨日の出来事について思い返していた。昨日も再び「あの体験」に見舞われた。
この体験は大げさなものではなく、稀な現象でもなくなってきていることは、以前の日記に書き留めていたように思う。それは、私自身の存在がこの世界から消えてしまうように知覚される体験である。
この体験に見舞われる時は、大抵、いつもと変わらぬ仕事や作業に従事している。ある意味、この体験は、日常の中に潜む非日常的体験と言ってもいいかもしれない。
昨日は、書斎の本棚から一冊の本を手にとって、それを開こうとした瞬間にそれが起こった。確かに私はその書斎にいて、本棚の目の前にいたのだが、それが起こった瞬間に、自分が一気にどこか別の世界、無の世界のような場所に飛ばされる感覚があった。
その世界の中では、「自己意識」なるものは存在しない。存在するのは、何も存在しない世界のみである。
もちろんこの体験は刹那的なものであり、数分間も持続するようなものではない。何も存在しない世界から本棚の目の前に戻ってきた私は、「んっ?」という言葉とともに、その体験が確かに自分に起こったことを知った。
自分でも謎に思うが、この体験をした後には決まって、「んっ?」という呪文のような言葉が漏れる。これは非常に名前の付けがたい体験である。
その体験について、先ほど朝食を摂りながら考えていた。私たちが気を失う時、あるいは夢を見ない深い夢の中にいる時、自己認識なるものは存在していないだろう。
それゆえ、この体験を最もわかりやすく言えば、「覚醒状態のまま気絶した世界に入る」あるいは「覚醒状態のまま夢を見ない深い夢の世界に入る体験」だと言えるだろう。
確か、ドイツの文学作家であるミヒャエル・エンデか、もしくはその父のエドガー・エンデが述べていたように、夢を見ない深い夢の世界が死への準備であるならば、この体験も死への準備であるように思えてきた。
だが、この体験は、夢を見ない深い夢の中で死に向けて準備をすることとは大きく違う点を内包している。それは、この体験が、覚醒状態の中で死への準備をすることにある点だ。
そのようなことを考えていると、この体験は、覚醒状態における擬似的な死の体験のように思えてきた。脳の鈍重さを考慮して、今日はまだ論文を読み始めていない。
その代わりに、文章を書くことを選んだ。文章をゆっくりと書き留めることによって、徐々に脳の鈍重さが消えていくのがわかる。
それでいて、依然として私の意識は黙想的・観想的なままである。この文章を書き始めた頃よりも、辺りに降り注ぐ太陽の色がより鮮明さを帯び始めた。
私はここから再び、自己意識の極致に向かう道と自己意識すら存在しない世界に向かう道の双方を歩いていこうと思う。2017/6/11