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1134. 変化・時間・経験・環境


今朝、カントの“Critique of Pure Reason (1781)”を音読していると、いくつかの箇所で少しばかり立ち止まった。一つは時間に関する箇所であり、もう一つは変化に関する箇所であった。

特に、変化の箇所に差し掛かった時、音読するのを少し止めてあれこれと考えを巡らせていた。変化というのはそもそも時間に埋め込まれたものであり、変化は時間を要求する。

一方で、時間を私たちの内側で認識するためには、その経過によって生み出される差異、すなわち変化が必要であるがゆえに、時間は変化を要求するという関係も成り立つのではないかと思った。また、そのように時間と変化が一体になったものを、私たちは「経験」と呼ぶのかもしれない。

経験を積んでいくには、時間と変化が必要なのだ。しかし、本質的に経験というものが主体的な自己そのものに他ならないことを考えると、自己とは時間と変化が一体となったものを指すのだろうか。 すると、少しばかり昨夜のことを振り返っていた。昨夜、私たちの知性や能力の成長は、置かれる環境によって大きく左右されるということを目撃するような出来事があった。自分自身の体験を振り返ってみても、今このようにしてフローニンゲン大学で研究を続けているということは、一つの特殊な環境における実践に従事していることに他ならない。

日々痛感しているのは、やはりこの環境の中でしか育まれようない知性や能力があるということである。研究者としての知性や能力の中には、ある程度一般化可能なものがあるのは確かだ。

しかし実際には、どの学術機関で鍛錬を積むかによって、能力の種類と深さが異なるのもまぎれもない事実だろう。その要因は、その人の資質だけにあるのではなく、やはり環境的なものが大きいとつくづく思う。

ある環境の中でどのような人物と共に実践に励むのか、その環境が持っている文化や仕組みなどを含め、環境を通じて私たちの能力が育まれていくということを改めて実感している。置かれている環境は、間違いなく私たちの脳と精神を形作っていくのだ。

その環境が特殊なものであればあるほど、脳と精神が特殊な形で育まれていくのがわかる。そのように考えると、教育や育成において、どのようなマテリアルを提供するかということだけではなく、どのような環境を提供するかということにより主眼が当てられるべきだろう。

同一の情報が与えられる時、私たちは置かれている環境によってその情報の汲み取り方がまるっきり異なるという性質を持つ。この性質を踏まえると、いかに優れた教育内容を提供したとしても、その内容の持つ深さを汲み取るための環境が備わっていなければならないことに気づかされる。

そもそも現代社会は、何かを深く学ぶことに適した環境を備えているのだろうか。深く能力を涵養するにふさわしい土壌が、私たちの社会に備わっているだろうか。

教育内容についてあれこれ議論する前に、教育内容を咀嚼するための前提となる環境について真剣に議論する必要があるだろう。教育を取り巻く思想や仕組みに強い関心を持ち始めているのは、おそらくそうした危機意識が私の中にあるからだ。2017/6/4

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