起床してすぐに朝の仕事に取り掛かり始めた私は、昨夜の夢を再び振り返っていた。例の大学の先輩とのやりとりに関する夢である。
私はその方との面識はそれまで一切なく、夢の中で初めてお会いすることになった。自分の父よりも年齢が上のその方も、何やら昔、どこかの国に留学をしていたらしい。
そして、それ以来ずっと日本を離れて生活をしているようだ。その方が留学をしていたというのは、夢の中の会話から判明したことだが、その方がずっと日本を離れているというのは明示的に語られたものではない。
それは会話を通じて、私が直感的に掴まえた感覚であった。日本を離れ、精神生活を他の言語で真剣に営んだことのある人に特徴的な言語的質感が、その人の日本語の中にあった。
物理的に日本を離れ、言語的にも日本語を離れることによって、日本語そのものを一度対象化した末に訪れるあの独特な日本語の質感だ。母国語の客体化を通った人の日本語は、ぬったりとしていない。
そこには妙な固着感がなく、カラッとした印象を私に与える。その方の日本語の響きそのものが、そしてその方の日本語に内在している言葉の質感が、日本を長く離れていることを物語っていた。
その方とのやりとりを振り返ってみたとき、「留学」というものについて少しばかり考えていた。今の私は確かに、形式的には留学生という扱いを受けている。
しかし、欧州に向かうことを決意した時から、私の中で今の生活を「留学」とみなしたことは一度もない。そのような位置付けで欧州に来たわけではなかった。
いや、留学という形式でそもそも日本を離れたわけではなかったのだ。「留学」という言葉にはどこか、母国へ戻ることが前提の語感がふくまれている。
一つの国での学びが終われば、自国に帰るというニュアンスがそこに含まれているように思うのだ。私は最初から、母国に戻るという前提を置いて日本を離れたわけではなかった。
実際には全く逆である。母国にはもはや戻らないという前提で欧州に向かったのである。
人生において何が起こるかわからないゆえに、私もいつか日本に戻る日が来るかもしれない。そして、その日は確かに来るだろう。
だが、当初の前提は今もなお揺らぐことはない。「日本に戻ることはできない」「日本に戻ってはならない」という言葉が私の無意識の世界にへばりついている。
それは呪文のような、陀羅尼のような力を持っている。私を駆り立てるものの一つは、まさにこの呪術的な言葉の中にあるものなのだと最近思う。
私が欧州へやってきたのは、決して留学をするためではなかったということ、そして今後も留学など決してしないということを再度強く心に留めておきたいと思う。2017/6/1