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1102. 曲を貫く美的法則


「何かを作り出すということはこれほどまでに大きな喜びをもたらすことなのだ」と思わずにはいられなかった。作曲の手を止め、そこでの感動が残っているうちに、それについて書き留めておきたい。

先ほど、五線譜上に曲を作っている最中、歴史に耐えた過去の様々な偉大な曲を五線譜上に再現するだけでも、なぜだか私は大きな喜びの感情に包まれていた。音符を五線譜上に並べるということそのものが喜びをもたらし、それがまるで一つの生命のように音を奏でることはさらに大きな喜びの感情を私にもたらした。

一つ忘れられない感動体験があった。それは、私がテキストに掲載されていたアメリカのフォークソングを五線譜上に再現した際に起こった。

作曲ソフト上の五線譜の上に音符を並べ終えた後、それを再生した時、何かの手違いで最後の音が出力されなかった。しかし、曲を再生している最中の私の頭の中では、最後の音がどのような音として立ち現れるのかがすでにわかっていた。

そうなのだ、それはもうわかっていたのだ。実際には聞こえなかった音が、もうその時の私の頭の中に鳴っていたのだ。

実際に、出力の手違いを修正し、もう一度再生をしてみると、まさに私が頭の中で聞いていた音が鳴り響いた。これは私のように音楽教育を一切受けていない者にとって驚きだった。

やはり、音楽は美的法則性に貫かれている。それを直接体験によって証明するかのような出来事だった。

こんな小さなことが、今の私にとっては大きな喜びをもたらす。いや、もしかすると、これは非常に重要なことなのかもしれない。

並べられた音符を眺めていると、「それらがそこにそのように」並べられていることは偶然性によってもたらされたのではなく、必然性によってもたらされたことを知る。それではその必然性とは何かというと、音楽を貫く、そして、一つの曲を貫く美的法則である。

ひとたびこの法則性に音が乗り出すと、それはもう必然的にあるべき最終形態に向かって姿を現し始めるのだ。「それが来たら次はこれ」であり、「あれが来たら次はそれ」なのだ。

私にとって、この美的法則が驚異的なものに映るのは、「あれ」と「これ」の接着剤、もしくは促進剤としての働きを静かに担っているということであり、決して「あれ」と「これ」そのものを指示しないということなのだ。

つまり、一つの音符が五線譜上に置かれた時、確かにその次に来る音符の種類と位置は、美的法則に基づいてその無限の可能性が有限の可能性に絞られる。だが、美的法則は、決してそれらの絶対的な種類と位置を明示するものではなく、作曲者の感性や自由意志が入り込む余地を残したものなのだ。

そうした余地を残しながらも、一つの音符と次の音符が次々と一つの必然的な流れをなしていくことの中に、その美的法則が宿るのだと思う。

とにかく私が毎日行いたいことは、一つの曲(あるいは一つの節)を貫く美的法則を意識的に把握することであり、その体験を積み重ねていくことである。音楽を貫く究極的な美的法則は、おそらく一つの巨大なものだと思うが、そうした法則を構成する小さな法則群が存在しているように思う。

そのため、日々の作曲実践の際に、小さな美的法則を見逃すことなくつぶさに捕まえていくことを行いたい。音楽に宿る美的法則に触れることが、これほどまでに大きな喜びを私にもたらすのだと改めて身にしみるように感じていた。2017/5/26

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