一日が終わってしまうことを惜しむような自分がいる一方で、新たな一日がやってくることも惜しむような自分がいる。つまり、時間など流れて欲しくはないと願うような自分がいるようなのだ。
現在の私は、自分の探究活動に没頭することによっていつの間にか一日が終わっていた、というような形で毎日を過ごしている。実際のところ、一日が終わりに差し掛かっていても探究の手を止めたくないと願うような自分がいつもいる。
寝ても覚めても探究活動を通じた仕事に没頭していても、それでも私はまだ、時間の流れの中で日々の仕事を行なっているように思える。どのようにしたら時間を超越した形で日々の仕事を行えるのだろうか。
その一点が大きなテーマとして私にのしかかっている。また、探究活動にいくら没頭していても、文章を読むことと書くことに関する身体的・精神的な限界というものが必ずどこかでやってくる。
そうした限界を感じさせる感覚器官そのものを取り払うことができるのだろうか。また、それを取り払ったとしたら、私の探究活動はどのような質と量を持つものに変容するのだろうか。そのようなことを考えていた。 今日からまた一つ、とても些細だが、新たな食べ物を一週間の中の食事に取り入れることにした。先日、私と同じ論文アドバイザーに師事して研究を行なっている、博士課程に所属するインドネシア人のニックという友人から、フローニンゲンの街の中心部に美味しいインドネシア料理店があることを聞いた。
私は中学生時代にインドネシアを訪れて以来、この国の料理に対して好意的な印象を持ち続けている。午前中の仕事を済ませ、ランニングに出かけた帰りに、そのインドネシア料理店に立ち寄り、昼食を持ち帰ることにした。
今日から、一週間に一度、ランニングに出かけた後は必ずこのインドネシア料理店で昼食を注文するということを決めた。これはおそらく、フローニンゲンにいる間中続く習慣となるかもしれない。
実際に、私がロサンゼルス近郊のアーバインという街で生活をしていた時、一週間に一度、ランニングに出かけた後は必ず近所の韓国料理店で昼食を注文するという習慣があった。一週間に一度の昼食は、普段の昼食とは分類の異なるものを摂取したいと思う。 インドネシア料理店の店員と早速少しばかり会話をし、店員の親切さと店の雰囲気から、新しい食生活が始まることを確信した。店を後にし、手に持ったインドネシア料理の香りがほのかに立ち込めるのかを感じながら、意気揚々と私は自宅に戻ることにした。
その帰り道、今日の天気がとても優れているからだろうか、フローニンゲンの街に住む学生たちが、家から椅子やソファを外に持ち出して、日光浴をしながら外で勉強している姿をちらほら見かけた。
その光景を眺めながら、「あぁ、こういう学習の仕方も良いものだ」と改めて思った。そのようなことを思った瞬間に、四年前に米国のイェール大学を訪れた時の記憶が蘇ってきた。
イェール大学のキャンパスの中でも、ひときわ静かな緑に囲まれた場所の中に、木でできたテーブルと椅子が置かれているのを発見した私は、そこに腰掛け、テーブルの上にノートを広げ始めた。取り巻く環境がとても静かであり、部屋の中とは違って非常に開放的であった。
そうした静けさと開放さが相まって、私の思考はどこまでも深く、そしてどこまでも広く運動を開始し始めたのを今でも鮮明に覚えている。フローニンゲンの街の学生が外で勉強している様子と、そこから喚起された記憶とが相まって、書斎の外に出て書物をゆっくり読んだり、思索を深めたりすることは時に有意義だと改めて思った。 最後に、インドネシア料理店からの帰り道、一つ感動的な出来事に遭遇した。それは、先日に書き留めた日記で登場した、鳥の親子の巣の話と関係している。
今日、改めてその運河の前を通ったところ、二人の通行人がその巣を指差しているのが見えた。指差す方向におもむろに近寄ってみると、そこには鳥の親子はすでにいなかった。
しかし、そこには二匹のカメがいたのだ。二匹のカメの大きさから察するに、それは親子であった。
二匹のカメは、あの父鳥が作り上げた巣の上で日向ぼっこをしていたのである。その姿に、私は仕事の尊さを改めて感じた。
二匹のカメが今このようにして太陽の光を全身に浴び、幸福さの中で生きていられることの背後には、あの父鳥の仕事があるのだ。この二匹のカメは、父鳥の存在など知らないはずだろうし、運河に浮かぶこの小さな休憩場が、一羽の鳥の仕事の産物であることなど知るはずもないだろう。
また、あの父鳥にしてみても、自分の仕事がこの二匹のカメの生を彩るものになるなどとは思ってもいなかったに違いない。まさにこれなのだ。これこそが仕事の意義と価値だと思うのだ。
この具体的な事例を目の当たりにした時、もはや仕事の意義と価値についての追加の説明など不要だろう。私は、あの父鳥のようにならなければならない。
そして、私はいつでも先人の仕事によって支えられた、あの二匹のカメのような存在であるということを絶えず自覚しながら生きたいと思う。それがこの世界で仕事をするということであり、この世界で生きることだと思うのだ。2017/5/26