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1098. 「健全な自己批判」と精神的自傷行為


日常、自分の内側で極端な発想や見解が沸き上がる時、それとの向き合い方が少々難しいことがよくある。実際には、それらに向き合うということはおろか、その瞬間に自分が極端な発想や見解に絡め取られていることに気づかないことが多々ある。

昨日も、「健全なる自己批判」という概念に対して、その健全性がどのようなことを意味するのか、どのような自己批判であれば健全だと言えるのかについて考えていた。「健全」という言葉が一般的に内包しているような、柔らかな感覚質を持つ自己批判では、自分の内側で何かを深め、何かを鍛錬することには不十分である。

「健全な自己批判」に対して私がイメージしていたのは、対象となる能力や自己そのものを一つの身体と見立て、それを木っ端微塵にし、飛び散った肉片すらも踏み潰してそこから新しいものを作り上げていくという姿だった。

そのイメージが頭の中で映像として進行する過程において、身体の粉砕までは何の抵抗感もなかったが、飛び散った肉片を拾い集めたいという気持ちが自分の内側に起こっていた。だが、それを拾い集めてしまったら元も子もないのだという考えが次に続いた。

それらの肉片すらも粉々にできか否かに、対象となる能力の成長や自己の成熟があるのだと思い直した。そうした映像が脳裏をかすめていくとき、人間の成長や成熟とは、つくづく生々しいものなのだと思った。

そこには肉があり、飛び散る肉があり、新たに生まれる肉がある。しかし、そうした発想は少しばかり極端なものなのかもしれないと思った。

だが、その瞬間に自分の内側でそのようなイメージが流れていったのは事実であり、イメージに対する解釈が極端なものだったのか、イメージを創造する自己の根幹部分が極端なもので支配されているのかを疑った。

流れていったイメージに忠実に言葉を与えれば、上記のような解釈になるため、解釈そのものが極端なのではない。さらに、イメージを創造する自己の根幹部分とは、本質的な人間性が眠っている場所であり、人間にとって根源的なものが宿る場所であるがゆえに、それらが極端なものに支配されていると理解するのもどこかおかしいように思える。

そのように考えると、先ほど私の内側に浮かび上がったイメージというのは真実性を内包しており、それに忠実に言葉を与えた先ほどの解釈も一定程度に正確なものなのではないかと思ったのだ。すると健全な自己批判とは、多分に自傷的な性質を持つのだと思う。

確かに、私たちの身体が鍛錬されていく際には、筋細胞の破壊による再創造が必要とされる。それと同じことがやはり精神領域においても求められるのだろう。

一方で、精神的な自傷行為は、身体的な自傷行為と同じぐらいに危険性を持っていることも事実であり、安易にそれを遂行させていくことはできない。ここまで文章を書き連ねてみても、結局、私が回答を与えたかった「健全な自己批判」なるものについて明確な答えが得られなかった。

現在の私は、さらに激しい精神的な自傷行為を求めていることは確かであり、それを促す働きかけが内側からもたらされていることも確かである。それはある意味、精神的自傷行為に関する自己意識と内側の感覚との一致であり、それに従うことがもしかしたら健全な自己批判なのかもしれない。

どのように転ぶのかわからないが、自らを対象にその確からしさを検証してみたいと思う。2017/5/26

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