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1084. 終止符へ向けて


学会に参加していた数日間、自分の仕事をする時間がほとんど取れなかった。文字どおり、朝から晩まで学会に関与していたため、それは致し方ないことであった。

また、生活のリズムも普段と異なっていたことも仕方ないことであった。そうした最中にあっても、自分の意識が絶えず自分の内側の静かな領域に安置していたことは面白い発見であった。

学会に参加する朝に聞こえてきた小鳥の鳴き声、夕方に学会から自宅に戻る最中に聞こえてきた小鳥の鳴き声は、私の意識をさらに深く安らかなものにするには十分であった。季節が春を迎えたからなのだろうか、朝夕、そして日中の至る所で小鳥の鳴き声がこだましている。

就寝時においてですら、小鳥の鳴き声が聞こえてくるというのはなんという至福だろうか。寝ても覚めても、幸福感をもたらしてくれるものが常にそこにある。 日が完全に沈むのは十時頃になった。闇夜の到来まで、あと二時間半ほどの時間がある。今この瞬間においても、小鳥の鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。

その声に耳を澄ませながら、私は少しばかり今日の出来事を振り返っていた。今日は早朝から、修士論文の最終ドラフトの完成に向けて修正作業を行っていた。

人間が成熟の極限に至ることが起こりえないのと同じように、文章というのも完全性に至ることはないのだと思った。つまり、文章を執筆するということが、常に私たち自身の絶え間ない変化と対になって行われるものであるがゆえに、ある文章を完成させることは起こりえないということである。

実際に、今日も論文を修正していると、より肉付けする箇所や削除する箇所などが見つかった。これらは単純に内容上の不適切さから生まれたものというよりも、自分の内側の成熟から必然的に生まれた追加・修正項目であった。

このように自己と文章の双方が絶えず深まっていくという性質を持っているとはいえ、論文の形式上の終止符を必ず打たなければならない。その終止符を起点として、研究内容をさらに深めるために次の論文に移っていくことが大事なのだ。

そのような終止符を打つことの中には、儀式的な意味が隠されている。ここから数週間以内の私がやるべきことは、この論文が持つ意味世界がいったん完結し、さらなる意味の探究へ向かって開いていくような作用を持つ終止符を打つことだ。

「納得のいく終止符」という言葉はあまり適切ではないかもしれないが、一つの論文が閉じ、そこから新たに次の論文に開かれていくための必然的な終止符があるのだと思う。

それを打つために、明日からまた自分のリズムで仕事に向き合いたい。2017/5/22

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