1078. 多感覚的文章と探究活動について


漠然と、「見つめる文章」「聞き入る文章」「香る文章」「触れる文章」「味わう文章」などについて考えていた。それらはどれも私たちの五感と密接に関係した文章だ。

五感覚を刺激するような文章と出会うとき、私は食い入るようにそれらの文章に夢中になることがある。どうやら、自分にとっては、五感覚を刺激するような文章は「食い入る」ように「味わう」対象なのだということがわかる。

そして、時折、五感を超えて、第六感を刺激するような文章が稀に存在することも知っている。それは、五感覚を通じてでは決して感得できないような文章だ。

それは、存在や生命が宿るような文章であり、私はいつもそうした文章から大きな励ましを受ける。今日もそのような一日だった。 午前中、私は第二弾の書籍の細かな修正を行っていた。その作業が完了した時、気が早いのだが、第三弾の書籍について思いを馳せていた。

すでにテーマは決まっており、書く内容についても大枠が固まっている。だが、その大枠を埋めるための密度を確保することは、今の自分にはまだ実現できない。

実現させようとする密度とどれだけの隔たりがあるのかを確認するために、この夏に原稿を書き始めてみるかもしれない。

半年ほど前の私は、この夏に第三弾の書籍の原稿を全て書き上げることを決めていた。しかし、今の自分の内面の成熟度合いを持ってして、実現させようとする内容を納得のいく形で書き上げられるのか少しばかり懸念が残る。

第三弾の書籍に関しては、正直なところ出版をそれほど焦っていない。焦ることなく、深めていくべきことを愚直に深めることを最優先としたい。そのようなことを思っていた。 そうしたことを可能にするが、まさに今行っているような探究活動であることは間違いない。ただし、しばらく前から、「探究活動」という言葉の持つ意味が変化し始めている。

一昔前、私はこの言葉を使うことは一切なかった。そして、ある時からこの言葉を使うようになり、今は当初とは異なる意味をそこに付与しているような気がする。

そもそも、一昔前に私がこの言葉を一切使わなかったのは、「探究活動」という言葉がひどく自己中心的な意味を持つような気がしており、それを少し嫌悪していたからだ。

しかし、ある時からその言葉の中に新たな意味がもたらされた。探究活動というのは、決して一人の人間の内面世界で完結するような閉じられたものではなく、全く逆に、多くの人間の内面世界に向かって開かれたものなのだと知った。

絶えず読み、絶えず書くという生活を欧州で孤独に送る中で、このような生き方でいいのかと思い悩む瞬間が幾度となく訪れた。だが、今は確信に満ちている。

絶えず読み、絶えず書くという生活を通じて、この世界に深く関与することが可能であると明らかになったのだ。己の探究活動が、他者の内面世界や外面世界に向かって開放されていく道をようやく見出したのだ。

今は、物体に触れるよりも明確に、世界に触れているという確かな感覚がある。こうした感覚こそが、私を安らかな気持ちにさせ、同時に、熱情的な気持ちにもさせる根源なのだと思う。2017/5/17

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