1074. 楽譜の筆写から得られたこと


「これを生み出すにはどのような手順を辿る必要があるのだろうか?」そのようなことを昨夜思わされた。

昨夜は、夜の八時から九時までの時間を使って、作曲の学習と実践をしていた。手元には、非常に親切な作曲の実践書が三冊と音楽理論を実践と共に学べる専門書が一冊ほどある。

昨日は、実践書のうちの一冊を取り上げ、書籍の項目順に作曲の実践を行っていた。ある意味、これは作曲に関する基礎的な知識と技術を習得するための作業である。

その後、私が意識的に行っている作曲学習法に移った。それは、ベートーヴェンのピアノソナタの楽譜を書き写していくという実践だ。

厳密には、私は作曲ソフトを活用しているため、手書きで楽譜を書き写すのではなく、コンピューター上の五線譜に、一つ一つの音符や演奏記号を並べ、ベートーヴェンが残した楽譜を完全に再現するようなことを行っている。

これと似たようなことを、私は学術論文の型を学ぶ際に行っていた。実際のところ、今でも毎朝時間を取り、専門書や論文を手書きで書き写すということを行っている。

これは英語だけではなく、一時期は日本語に関しても行っていた。これは今でもやらなければならないことだと思うのだが、特に二十代の後半に、硬質な語彙と文体を持つ和書を手書きで書き写すということを行っていた。

その際に取り上げていた書籍は、井筒俊彦先生の『意識と本質』と『東洋哲学覚書:意識の形而上学』であった。今はめっきり日本語の文章を書き写すことはなくなったが、どこかの機会に再び文体や語彙の鍛錬をしなければならないような気がしている。 自分が優れていると思う書籍や論文を書き写すのと全く同じように、ベートーヴェンが残した楽譜を昨日書き写すことを行っていた。作品順に、ピアノソナタ第1番からこの実践を始めたのだが、最も初期のこの作品でさえ、今の私にはどのようにすればこのような作品が生み出せるのか不思議でならなかった。

全く手の届かないようなところに向かって私は歩き始めたのではないだろうか、ということを思った。しかし、一つ一つの音符や演奏記号を自分の手で配置し、少しばかり分析的な視点で眺めてみると、実に色々な発見があるものである。

間違いなくベートーヴェンは、全ての音符や演奏記号を何らかの意図や意味に基づいて配置しているのは確かだろう。私にはそれらの意図や意味などまだほとんど掴めない。

だが、自分の手を動かしながら楽譜を復元させていくと、ベートーヴェンの意図したことのごくわずかの一端が感覚的にわかる瞬間が何度かあった。ある意味、こうした瞬間がなければ、目的地の見えない蜃気楼の中を、絶望感に苛まれながら歩くようなものだったと思うのだが、そうした瞬間のおかげで、私は少しずつ前に進めるような気がしている。

こうした地道な作業の中、時折、ベートーヴェンが楽譜で指示していることを無視したり、あえて変更を加えてみるとどのような音になるかを実験してみることは私の楽しみの一つだった。例えば、音を結びつける「スラー」と呼ばれる演奏記号を無視してみるとどのような音になるのかを実験してみた。

すると、演奏の滑らかさが消え、無骨な音の流れに変わったりするという発見があった。それによって、「確かにそこにはスラーがなければならないのだ」ということが分かったりしたのである。

また、時折現れるイタリア語の演奏記号には、とりわけ関心の目が向かった。「フォルテ」や「ピアノ」などの強弱記号やテンポを指示する速度記号、特に私が関心を持ったのは「発想記号」と日本語に訳される見慣れないイタリア語群だった。

例えば、「marcato(はっきりと)」「legato(滑らかに)」などの記号は、まさにベートーヴェンの意図や意思が込められた言葉のように映った。昨日私が書き写した箇所には現れていないが、それ以降のピアノソナタの中で、「appassionato(熱情的に)」「spiritoso(精神を込めて)」などの発想記号には特に注目をしたい。

私がこのような発想記号を入れて曲を作ることは随分と先になるだろうが、こうした記号の中にベートーヴェンの意思が宿っていると思うと、今の段階でもそれらを無視しながら探究を進めることはできない。

昨夜は、こうした地道な探究実践と共に、音符を理論に則って五線譜上に配置したり、無作為に配置したりするとどのような音の流れと総体になるのかを実験することに興じていた。

今日も夜の八時から九時はそうした時間としたい。2017/5/16

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