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1071. 作曲への取り組み方の変更


今日はこれから作曲の学習と実践に取り組みたい。これまで週末にまとまった時間を確保して作曲に取り組もうとしていたのだが、意外と時間が確保できなかったりすることが多く、作曲の探究は非常に足取りが遅い。

足取りが遅いことに関しては別段問題ではないのだが、問題は作曲と向き合う時間をきちんと確保できないことが時々があるということだ。週末にまとまった時間を取ろうとすると、逆にそうした意識が作曲に取り組むことから私を遠ざけているように思えた。

私は、何かの対象と真摯に向き合うときには、必ず毎日それと向き合いたいという抑えがたい思いが湧き上がる。作曲に関してもまさにそうした思いが湧き上がっていたにもかかわらず、それを抑える形で週末に作曲と向き合うとしていたことが問題であったことに気づいた。

今日から、少なくとも、夕食後の夜八時から夜九時は、作曲の学習と実践に充てたいと思う。まとまった時間の中で何かに一気に取り組むのは私の特性と合致しておらず、やはり毎日少しずつ取り組むのが私の特性に合っているのだと思う。

最近、日常の中に新たな習慣が入り込むことが多くなっているが、作曲の学習と実践は、日々の最後の習慣としたい。当面は、これ以上習慣的なものを設けないようにしたい。 作曲に関しても、人間の成長と全く同じように、それが少しずつ深まっていく様子と共にありたい。公園に植えられた花々がいつの間にやら咲き誇っていたように、大海をゆっくりと進む船が気づかない間に途轍もない距離を移動していたように、目には見えない進行を常に感じながら、作曲に取り組みたいと思う。

私が求めるのは、建築家が建築物を一つ一つ構築していくような建築性であり、生き物が一歩一歩成長を遂げていくような深耕性である。 先ほど、ふと、自分が執筆した日記に対する追記をさらに執筆していくような方法を採用しようかと考えた。というのも、いつもは、自分の日記の誤字脱字などを確認し、自分でも読み難い箇所が文章にあった場合、それを整えることしか行っていない。

だが、そのような編集作業をしていて時折思うのは、「もう自分はそこにいない」ということである。つまり、日記として書き留めたテーマに対して、それを数週間後に読み返す私は、もはや以前とは異なった新しい考えや感覚を持っているのだ。

それを追記として書き留めておくことは、自分の考えや感覚をさらに深めていくことに有益であろうし、「追記の追記」という形で今後さらに内容を展開させていくことも可能になるだろう。 早朝と同様に、まだ私の頭の中には、埴谷雄高氏の『死霊』の影がちらついている。この長編小説は、結局未完に終わり、埴谷氏の構想が全て具現化させることはなかった。

しかし私は、埴谷氏が50年をかけて一つの主題と向かい、一つの仕事を行ったという事実に対して、大きな敬意を表していた。書き手の思索が深ければ深いほど、小説が哲学書としての様相を帯びることを知る。

そこから私は、科学論文も、書き手の思索が深ければ深いほど、そのテーマに関する己の思想が色濃く反映されることを知った。私にとって、思索を深めることの意義と論文を執筆することの意義はその中にありそうだ。

思索を深めることを通じて論文の中に思想を宿し、論文を執筆することを通じて思索を深めていきたいと強く思う。2017/5/15

追記

結局、過去に執筆した日記に対して追記を書き加えることや、「追記の追記」という手段を採用しないことにした。自分でも抜け出せないほどの文章のつるに絡めとられるからである。

過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

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