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1067. 遍く幸福感から


夕方、私は恍惚とした感情に包まれていた。仕事をしていて幸福感を覚えるのは、生きていて幸福感を覚えるのと全く同じことだとわかった。

つまり、仕事を通じて得られる幸福感と生きることを通じて得られる幸福感が等質であるということだ。仕事から得られる充実感と生きることから得られる充実感が、限りなく等しいものであることに前々から気づき始めていたが、それらが完全に一致するものであるとは知らなかった。

仕事と一体化することによって得られる幸福感、生きることと一体化することによって得られる幸福感を得たとき、「所有とはなんだ」という問題にぶつかった。これは、今の私にとって、投げかけてはならない問いだった。

というのも、「所有」という意味を考える手立てが整ってもいなければ、その問いを考えるための精神的な準備もできていないからである。「所有」という言葉の意味を直接的に考える代わりに、私は、「幸福感を得た」という自分の表現について見直していた。

先ほどの私は幸福感を「得た」のだろうか。それは、獲得され、所有されるような類いのものだったのだろうか。そのような問いが私の中に立ち現れた。

幸福感というものは、本来、獲得されるようなものでも、所有されるようなものでもないはずである。それこそ、幸福感というのは、全ての瞬間に遍く存在してしかるべきものである。そうではないだろうか。

幸福感を得ることが難しいのではなく、ありとあらゆる今という瞬間に存在しているはずの幸福感に私たちは麻痺しているのかもしれない。認識の眼が曇り、感覚が閉ざされることによって、常に今もこの瞬間に存在している幸福感を見出すことができず、それに触れることができないだけなのではないだろうか。

先ほどの私は幸福感を得たのではなく、常に自分を取り巻いている幸福感に気づき、それに触れることができたのだということを知った。そして、そのような性質を内在的に持つ幸福感は、獲得される必要もなければ、所有される必要もないと思った。

繰り返しになるが、それはなぜなら、幸福感というものが至る所に偏在しているからだ。ありとあらゆるところ、ありとあらゆる瞬間に存在している幸福感を、なぜ獲得する必要や所有する必要があるのだろうか。

そんな必要はないだろう。また、幸福感がありとあらゆる瞬間と場所に存在しているということは、私たちは絶えず幸福感を感じながら生きることも可能なのだろう。

そのように考えると、幸福感というものは、時間と空間を超越するような性質を持っていることがわかる。すると、そのような性質を持つ幸福感を感じた瞬間に、私たちは時間と空間を超越したことを意味するのではないかと思う。

やはり、私たちの存在の本質には、時間と空間を超越するような力があるのだ。いや、私たちの存在は本質的に、時間と空間を超越したものなのかもしれないとすら思う。

死者の存在を私たちがいつまでも感じ取れるというのは、それが時間と空間を超越しているからであり、存在するものはどれも時間と空間を超越しているのではないだろうか。そのような考えばかりが私の頭の中を駆け巡っていた。2017/5/14

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