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1066. 日本性の獲得へ向けて:言葉と自己の偏在性


「あぁ、もう自分は日本人なのだ」ということを突然知った。これは、自分の中に日本人性が骨の髄まで沁みわたっているということや、私が日本国籍を持っていることとは一切関係ない。

それ以上に根が深い事柄である。自己の存在と日本の全てが切っても切り離せない関係にあるのだ。それは、文化的にも言語的にも精神的にもそうである。 昨日、とりわけ私は、日本語をもっと真剣に学ばなければならないと思わされた。これはもちろん、日本語の語彙を増やすということや、日本語の正しい用法を学ぶというような表面的なことではない。

しかしそれでも、日本語の辞書が欲しいと思った。それを欲した理由は、日本語の一つ一つの言葉に日本性が宿っており、私はその一つ一つを自分の存在と照らし合わせながら確かめたいと思ったことにある。

最近、一つ一つの言葉が存在を持つような気さえする。そして、それは真実だろう。

一つ一つの言葉には間違いなく、それと対応する存在が宿っているのだ。それらの一つ一つが日本性の現れであり、それらの総体が日本性に他ならない。 日本語を学ぶことの最良の道は、辞書を片手に言葉を覚えることでも、良質な日本語の書物を読むことでもない。確かに、それらを通じて私たちは、日本語の形式に関する学びを得ることができる。

しかし、最良の道は、自身の内面を深めていくことにあるのだと思う。内面の深まりが、紛れもなく言葉の深まりと対応しているのだ。 昨日も、私は自分の日本語を疑い続けていた。ある時、それは自分の存在を疑うことに等しいということに気づいた。

日本語の一つ一つに固有の存在が宿り、それらを発する私という存在は同様に固有の存在なのだが、私という固有の存在が、それら個別個別に存在を持つ一つ一つの言葉を紡ぎ出していくというのはどういうことなのだろう、ということを考えさせられていた。

「あぁ、自己というのは遍在なのだ」とその時思った。言葉は本質的に、時間も空間にも縛られないものである。つまり、私たちの言葉は遍在的なのだ。

そこから、一歩先に進んでみると、こうした遍在的な言葉と不可分の私の存在も遍在的と言えるのではないか、という考えが浮かび上がった。であるならば、私という存在は、どこにも存在していないのと同様に、あらゆるところに存在しているのではないか、と思った。

どこにもないというのは、全ての場所にあるということなのだ。この気づきは、何か他の事柄にも当てはまりそうだ。

私たちが何かを追い求めようとするとき、それはそもそも不要なことなのかもしれない。つまり、私たちが求めようとすることの全ては、あらゆる場所に実は存在しているかもしれないのだ。

ここで「場所」という言葉を用いたが、厳密には、私たちの存在そのものと言葉が遍在的であるというのは、場所にも空間にも縛られないということを意味しているため、「場所」という言葉には語弊があるだろう。

いずれにせよ、自己の存在や言葉が、時間や空間を超越し、遍くところにあるということ、常に今この瞬間にあるということに気づけたのは、私にとって非常に大きな意味を持つことであった。2017/5/14

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