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1063. 埴谷雄高著『死霊』


そこにあったのは興奮だった。不気味な興奮が背筋を駆け上っていったのは、これが初めての経験かもしれない。

そのような出来事に本日見舞われた。今日は今朝から論文を執筆していた。

早朝に、カントの “Critique of Pure Reason (1781)”を1ページほど筆写すること意外、今日は書籍や論文に目を通すことはなかった。ただ、昨日読んでいた辻邦生先生の文章を少しばかり私は振り返っていた。

その書籍は、辻先生のエッセイであり、ちょうど先生がフランス留学を終えてから執筆したものだと思う。そのエッセイ集の中に、小説家の埴谷雄高氏についての記述があった。

以前、私はどこかで——その時も辻先生の書籍からだと思うが——、埴谷氏の名前を目にしていた。当時は特に埴谷氏について知ろうと思うようなこともなく、埴谷氏の存在は空気のように私の目の前を素通りしていた。

しかし、昨日は、素通りしてはならない何かを感じていた。埴谷氏が残した最大の傑作『死霊』という長編小説のタイトルが、絵も言わぬ不気味な妖気を放っていた。

それは恐ろしいほどに魅惑的な何かを秘めているように私には思えた。触ってはならないものに触りたいと思うようなあの感情、見てはならないものを見たいと思うあの感情が、私の内側を絶えず流れていた。

今日の昼食後、午前中に引き続き、私はプログラミング言語のRのコードを書き、データ分析に勤しんでいた。データ分析のある箇所において、回帰係数を算出した瞬間、『死霊』という長編小説が突然頭の中で跳ね上がった。

算出した回帰係数を論文に転載するよりも先に、私の思考と手は『死霊』という作品をインターネットで調べることに向かっていた。すると偶然、埴谷氏が存命中に残したドキュメンタリー番組を見つけた。

埴谷氏は、『死霊』という物語は、「虚体」から始まり「虚体」に向かうストーリーだと述べる。その時、私は、『死霊』というタイトルに不気味な妖気を感じていたのではなく、その作品の中心テーマである「虚体」という概念に「近づいてはならない近づきたい気持ち」を抱いていたのだ、ということがわかった。

「かつてなかったもの、そして、決してありえぬもの」が虚体の表面的かつ本質的な意味であり、『死霊』という作品の中で徐々に開示されている事柄は、人間意識の発達の極致に向かう過程に他ならないということが、この作品を読まずして感じ取られた。 私が興奮を感じていたのは、この小説を読んでの興奮ではない。『死霊』という作品が持つ「虚体」という概念の力であり、それが人間意識の発達が到達する極致の姿であり、そうした事柄を小説という表現形式で表すことができるということに対しての興奮であった。つまり、小説の存在意義を生まれて初めて感じたことによる興奮と言っていいかもしれない。 書斎の開放された窓から、白く小さなタンポポの花粉が部屋に入り込んできたのが見えた。滅多にないことだったので、その様子をじっと観察していると、ある瞬間に、花粉がピタリと空中のある一点で止まった。

それは私の視線と同じ位置の高さだった。私には、その花粉が行き場のないままそこで停止しているように思えた。

すると、その花粉は、積み重なった論文の束の上にゆらりゆらりと落ちていった。そこがこの花粉にとっての行き場だったのだろう。 私は、辻邦生先生の『夏の砦』を最初から最後まで読みたいと以前から思っていた。なぜ、欧州にその作品を持ってこなかったのか、少しばかり悔やまれる。

私は、次回日本に一時帰国する際に、実家からその作品を持ち帰ろうと思っており、その時に埴谷氏の『死霊』も購入して持ち帰ろうと思った。しかし、私は待てなかった。

この六年間の海外生活で一度もしたことがないことをした。先ほど、日本から初めて和書を取り寄せた。それが『死霊』だった。 この作品は、12章で完成する予定だったのだが、結局、1945年から1995年の50年をかけて、第9章まで執筆したところで、埴谷氏は没している。このような仕方で仕事ができるのかと私は愕然とした。

森有正先生が芥川龍之介の作品を10年かけてフランス語に翻訳したのと同じぐらい、真の意味で仕事をするというのは、これほどまでに厳しいものなのだということを突きつけられたような気がした。

私は、この夏、『死霊』と共に過ごしたい。2017/5/13

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