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1057. 筆写と投影


昨日から突如として、書籍や論文、そしてノートに書き込むメモの量が増えた。特に、書籍の余白やノートに書き込む際のメモの形態が、単純な文章の形ではなく、図表などの視覚的な形に変化し始めた。

これは自分が後からメモを読み返す際に、図表の形で残っている方が直感的に理解しやすいという無意識的な思いと関係しているかもしれない。また、このひと月以内に作曲を始めたことに伴い、自然言語のみならず、音楽言語を含めた他の言語形式で内側の現象を外側に形として表現しようとする意思と関係しているかもしれない。

いずれにせよ、書籍や論文、さらにはノートへの今後の書き込みに際して、図表が無意識的に増えていくだろうし、また意識的にそれを増やそうと思う。そして、今日から再び文章の書き写しの習慣が始まった。

この習慣は、私が米国に渡って以降、六年近く続けていたものだったのだが、直近のひと月にはその習慣をあえて行っていなかった。だが、今朝から少しばかり時間を取り、筆写を行う習慣を再開させた。

今日から、イマニュエル・カントの “Critique of Pure Reason (1781)”を最初のページから筆写し始めた。なぜカントを選び、なぜこの書籍を選んだのかは定かではない。

だが、直感的にこの書籍しかないという思いがあったのは確かだ。毎日一ページずつ筆写していくと、全てを書き写すのに一年半ほどの時間がかかるだろう。

どれだけ時間がかかるかは全く問題ではなく、それをやろうと思った自らの意思を尊重したい。また、この習慣を通じてもたらされる規律と克己を大切にしたい。 昨夜就寝に向けて準備をしている最中、ふと、書籍というのは著者の心理的な投影が色濃く現れるものだと思った。それは否定的な意味ではない。

むしろ、そうした書籍の中に著者の独自性や実存性が反映されており、それこそが読むべき本としての資格を与えるような気がするのだ。当然ながら、著者が自身の心理的な投影を冷静に捉えた上で、その書籍を執筆していることが大前提である。

自らの心理的な投影に気づかないまま記された書籍は、独断的なものになりやすく、ひどく偏向的だ。今回の第二弾の書籍の中に、私自身のどのような心理的投影があったかをもう一度考えていた。

大きなものは、自らの不勉強さと精神の鍛錬不足であった。毎日、自らの不勉強さを嘆き、いかにすれば精神が鍛錬されていくのかを、藁にもすがるような思いでその方法を手探りで求めている自分がいる。

就寝前、祈りにも似たような気持ちで考えるのはそのことばかりだ。こうした個人的な問題が起点となり、それを社会の不勉強さや精神の鍛錬不足に投影する形で問題提起をしたのが今回の書籍の一部の姿だと思う。 昨夜も、新たな知識を一つ獲得することよりも、既存の知識がさらに一段深くなることを静かに祈って眠りについた。2017/5/12

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