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1050. 自分の言葉で文章を書くということ

May 24, 2017

いつものことだが、日記をいざ書き始めてみると、それは当初の意図とは全く違う方向に進んで行く。それは私自身が、書き留める内容を整理しないままに書き始めることが大きな理由の一つだろう。

 

もう一つには、私たちの精神には、本質的に「回遊性」のような特徴があるのだと思う。一方で、興味深いのは、当初の意図と逸れた方向で文章が展開していきながらも、最初に思い描いていた場所に到着しうる姿をを目撃することがある。

 

おそらくそこには、私たちの精神が持つ回遊性という特徴の他に、「回帰性」と呼べるような特徴があることに起因しているように思える。

先ほど、自分の日記の言葉の質感について考えることを余儀なくされていた。自分の日本語を磨くには長い時間がかかるのを承知であるが、それは徹底的に遂行させていかなければならない。

 

自分が真の日本人となり、真の日本語を書く日は果てしなく遠い。そこに向けて、毎日文章を書き続けていきたいと思う。

自分の日本語の成熟度に対して否定的な見解を持つだけではなく、少しばかり自分が日記から得られる肯定的な側面にも着目をしていた。先日、日記を読み返していた時に、やはり過去の日記から励ましを受けることが度々あることに改めて気付かされた。

 

この点については、以前から何度も指摘していることかもしれない。だが、これは何度強調しても強調しすぎることがないぐらいに、今の私の生活にとって重要なことである。

 

まさに、日記で綴られた自分の言葉は今の私の生活の糧となっているのだ。それは精神の糧であり、精神的な支柱である。

 

また、日記から精神の治癒と浄化を得られることも度々ある。言葉というのは不思議であり、自分自身の言葉には不思議な力が秘められていると思わずにはいられない。

 

日記を書くということ、文章を書くということに関して、「書けば書くほど、病は深くなる。書くというのは、自殺的な行為である。だが、避けることのできない必然的な行為なのである。書くことにしか、私は興味がない。」という、ハンガリーの作家アゴタ・クリストフの言葉が、妙に深く突き刺さる。

 

文章を書くというのは、表層的な精神的治癒をもたらすというよりも、病を極限まで深めることによってその病を乗り越えようとする行為に近いのかもしれない。人間の内面的成熟において死と再生が必要であるという発達原理に則れば、クリストフの言葉は正鵠を射ている。

 

自分の言葉で文章を書くということは、根本的に自殺行為であり、病を深めながらも、そこからの再生をもたらすものでなければならないのだと思う。2017/5/10

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