1049. 言語の彫琢と精神の陶冶へ向けて


今日は早朝から、様々な哲学書を横断的に読み進めていた。一冊の書籍を隅から隅まで読み進めるというよりも、その瞬間に立ち止まらざるをえない箇所を精読するというような態度でそれらの書籍と向き合っていた。

カント、フィヒテ、シェリングの順番に彼らの代表的な書籍を歩いて行った。特に、フィヒテとシェリングの書籍( “The Science of Knowledge (1982)”と “System of Transcendental Idealism (1978)”)は、数年以内に必ず精読する日が来るだろう、という確信を得た。

両者の書籍には、私が依然として強い関心を持ち続ける意識の問題と主観性の問題、そして、知の体系化の問題が盛り込まれている。その後、ダイナミックシステム理論に関する書籍を読み始めたが、やはり私にとって、数学言語よりも哲学言語の体系が脆弱であることに気づく。

最近よく思うのだが、限りなく深い次元で彫琢された哲学言語は、数学言語よりも厳密なのではないだろうか。もしかすると、これが私にとって数学言語に対して感じる親しみやすさなのであって、逆に、哲学言語に対する親しみにくさなのかもしれないと思った。

毎日の習慣と化した、哲学書から数学書への移行を経て、「成人発達とキャリアディベロップメント」のコースで取り上げられている論文を読み進めた。先ほど読み進めていた哲学書との落差に一瞬戸惑いながらも、論文の要旨とそれに対する自分なりの疑問点などをワードにまとめていた。

このコースでは、各週に取り上げられる論文一本一本に対して、三つの要点と三つの疑問点を準備してくることが要求されており、クラスの開始前に無作為に三名ほどの受講生が選ばれ、クラスの前で簡単にプレゼンをすることが要求されている。

最初はなかなか面倒な課題だと思っていたが、毎週それに向けて準備をする中で、論文の読み方を再度考え直す素晴らしい機会となっていることに気づき始めた。本質的には、一つの論文を読むということは、一つの論文を書くということと同じぐらいに難しい。

また、論文の価値を正確に評価し、建設的な批判を加えるということも同じぐらいに難しいことだ。 欧州で生活を開始した時ほどに強烈なものではないが、それでも私はほぼ毎日、自分が真に仕事を開始するための鍛錬が圧倒的に欠落していると痛感している。端的には、それらは知識体系の欠如であり、言葉を生み出すための筋力の欠如である。

知というものが何であり、それがどのように体系化されるのかという衝動的な関心があるがゆえに、私はそれらのテーマに関する哲学書にすがるが如く接近し、知の体系化のプロセスとメカニズムを記述した発達科学の専門書や論文を貪るように読もうとするのだろう。

一方、言葉を生み出すための筋力についても、毎日頭の片隅で常に突破口を見出そうともがいている。英語と日本語を問わず、どのようにすれば、表現しようと意図するものを明確な言葉で表現することができるのか、という道を絶えず探っている。

いつも自分の言葉を眺めるにつけ、嫌悪感が生じ、その感情に絶えず苦しめられる。実は、この問題に関して、自分の内面の成熟がそれを解決する唯一の手段であることをすでにわかっている。

そして、内面の成熟には長大な時間と忍耐が要求されることがわかっていながらも、それを直ちになんとかしようとする自己矛盾的な自分がいるのだ。そうした自分の有り様を見るにつけ、内面の成熟とはつくづく自己矛盾との対峙であり、自己との絶え間ざる格闘なのだと思う。 仮に、日記を毎日書くということが、自己矛盾との徹底的な対峙であり、自己との絶え間ぬ格闘を意味しているのであれば、これを長大な時間継続させた結果として、内面の成熟にはそれらが不可欠であったことが、後々思わぬ形で証明されるのではないか、という打算的な思いが自分の中にあるのを隠すことはできない。

私は、先人の幾人かが、まさに同じプロセスで内面の成熟を果たしたことを知っている。その過程と方法が普遍的なものなのかを検証するために、私は同じ道を辿ろうとしているのかもしれない。 日々、自分が用いる言語を絶えず磨き続けたいと思う。それが精神を陶冶する唯一の手段だろう。2017/5/10

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