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1048. 構造主義と集合的な認識の枠組み


昨日、ジャン・ピアジェの “Structuralism (1968)”を読み終えた。本書の中でピアジェは、構造主義とは哲学思想でも教義でもなく、世界の一つの側面を捉えるための方法なのだ、ということを主張していた。

また、ピアジェは本書を通じて、レヴィ=ストロースやフーコーを始め、様々な構造主義者の考え方を参照しながら、人間の知性の発達を説明するための新たな構造主義を確立しようとしていたことが伺えた。まさにピアジェの主張通り、構造主義とは随分と長い歴史を持っており、特定の思想や教義に還元できないものだと知る。 昨日の昼食時、私は何気なく食卓の窓から外を眺めていた。すると、犬の散歩をしている一人の中年男性の姿が見えた。

飼い主と犬の様子を何気なく眺めていると、その犬がおもむろに立ち止まり、道端で糞をし始めた。その飼い主に目をやると、犬の方を見ることなく、進行方向に視線を向けながらその場に立っていた。

私はその様子を食卓の窓から凝視していた。犬が用事を済ませ、道端に置き去りにされた糞を思うと、それを見ていたこちらの方に罪悪感が湧いてきたが、飼い主は何事もなかったかのようにゆっくりとその場を去った。

オランダに来てから気づいたが、こちらでは犬の糞を持ち帰る習慣がないらしい。オランダには、そうした習慣や法令がないのだろう。そのため、その飼い主は何の違和感もなくその場を立ち去ったのだと思う。

一方、その一部始終を見ていた私の方に罪悪感のような感情が湧いてきたことは面白い。おそらく、その出来事を見ていた時の私は、日本社会の習慣や法令という目には見えない認識の枠組みを活用していたようなのだ。

まさに、私の認識の枠組みという構造が私の思考を規定し、それが感情にも影響を与えている。同時に、社会の習慣や法令というのもれっきとした構造であることが改めて理解された。

欧米での生活を通じて、日本で獲得した大きな認識の枠組みをこれまで見直す作業を続けてきたが、今回のような小さな認識の枠組みは、まだまだ見直す余地があることに気づかされる。それにしても、目には見えない個人的・集合的な認識の枠組みは、絵も言わせぬ強制力を持っていることに気づかされる。

とりわけ、集合的に共有されている認識の枠組みという構造の力は巨大なものであり、それは私たち個人個人の認識のあり方を目には見えないところで縛っている。そして、構造の種類とその質いかんによって、それは集合意識を過度に縛るものとなり、それを堕落させる方向に導くことになりかねないことに対して、少しばかり恐ろしさを感じた。

集合的な意識の発達段階を特定するという表面的な分析よりも、集合意識がどのような思想によって呪縛され、それらがどのような構造的限界や盲点を持っているのかに自分の関心の目が向き始めている。

しばらくは、ピアジェの書籍の中で取り上げられていた人物を中心に、ここで改めて社会的な認識の枠組みという構造について探究を深めていきたいと思う。2017/5/10

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