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1029. 認識の深まりと「真理」が持つ意味について


今日は朝一番に、ドビュッシーのピアノ曲をかけ始めたのだが、一曲目の途中で、これでは仕事を始められないと思い、別の作曲家のピアノ曲をかけることにした。

ドビュッシーの曲は否定されるべきものではなく、その時間帯の私の感情と感覚に全く合致していなかったというだけの話である。結婚式の最中に鎮魂歌を流さないのと同じように、その時々にふさわしい音楽というものが存在しているのだ。

その後、グレン・グールドの “Glenn Gould plays Renaissance & Baroque Music: Byrd; Gibbons; Sweelinck; Handel: Suites for Harpsichord (1970)”というCDを聴き始めた。このCDを何気なく聴き始めたところ、おそらくヘンデルの曲に至った時、「あぁ、これがハープシコードと呼ばれる楽器が奏でる音なのだ」という思考が飛び跳ねた。

思考が飛び上がるのを感じて以降、普段通りの仕事の波に乗り始めた。ようやく、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの “Difference and Repetition (1968)”の再読を終えた。

本日、最終章を読み進めていた時に、この数日間を過ごす間において、ドゥルーズの思想から感化される度合いが緩まっていることに気づいた。ちょうど本書からいったん時間と精神的な距離を置く時期に差し掛かったのだと知る。

午前中の仕事を終え、昼食を摂っている最中に、「真理」と呼ばれるものに対して関心の矢が突き刺さっていた。これまでの私は、相当に認識の眼が曇らされていたことに気づかされる。

というのも、主観的な真理を認めつつ、客観的な真理など存在しないという認識を持っていたからだ。この認識は、ある種の矛盾を含んでいることに気づいた。

欧州での生活を始める前後から、個人の内側の感覚を思想にまで高め、それをさらに磨いていくことによって主観的な真理に到達することができるという確信を得ていた。しかし、そうした主観的な真理が存在することを認める一方で、客観的な真理の存在を否定している自分がいたのである。

科学的な研究に従事する仕事をしているにもかかわらず、そのような有り様であった。ただし、主観的な真理に到達することが、普遍性に至ることと同じ意味を持つことに気づいた自分がいたことは確かである。

昼食時に疑問に思っていたのは、ここで述べる普遍性と呼ばれる言葉の意味であり、それと客観的な真理との違いについてである。ハッとさせられたのは、普遍性と客観的な真理とは同じ事柄を指しており、そうだとするならば、主観的な真理と客観的な真理も同じ事柄を指しているのではないか、という気づきが得られたことだった。

個人の感覚を思想に昇華させ、その思想そのものをさらに発展させて行った先に主観的な真理が待っており、それが普遍性に至ることと同じ意味であるならば、究極的な主観的な真理と客観的な真理は表裏一体の関係にあると思ったのだ。

私は何を求め、何に向かって主観的・客観的な探究を行っているのかの意味が、真夏の太陽に照らされるかのように明瞭なものになったのだ。真理に対する認識の深まりにも発達段階があるようだ。

それは順番に、主観的(客観的)な真理など存在しないという段階、主観的(客観的)な真理を認めつつも客観的(主観的)な真理を認めないという段階、主観的な真理に至ることと普遍性に至ることは同義であると認識する段階、そこから主観的な真理と客観的な真理は普遍性を連結点として表裏一体の関係になっていることを認識する段階へと進んでいくのだ、ということを身を持って経験させられた。

認識が深まることによって開示される意味が深まっていく、というありふれた言葉の裏には、実際に認識が深まることによってしかその言葉の真意を汲み取れないようなことが確かに存在している、と改めて気付かされる。

今日が曇りであり、明日が晴れであり、明後日が曇りであるように、認識を覆う雲が完全に晴れることはないことを知っている。ただし、それは雲の下で生活をし続けた場合という前提条件があることを忘れてはならない。

雲の上の世界があるという認識を得たことは、認識を覆う雲が完全に晴れる段階があるのだということを私に確信させるには十分であり、そこに向かおうとする私の背中を押しているように思えた。2017/5/5

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