ベートーヴェンピアノソナタ第14番『月光』のある箇所で、自分の意識がそこにピタリと留まった。第1楽章から第2楽章に移る際の無音の瞬間に、そこに意識が凝縮されていった。
私は、第1楽章から第2楽章への移行の姿に大きな感銘を受けた。「そこからそこへ展開させることがそのように可能なのだ」ということに対する大きな驚きを持ったのだ。
作曲の学習と実践を少しずつ始めてから、曲との向き合い方が随分と変わったように思う。作曲者の観点から、曲の展開のさせ方やそこに込められた意味などを探究するような姿勢で曲を聴くようになっている。
ベートーヴェンの曲を聴けば聴くほどに、自分には作曲は到底無理だという気持ちが強く湧き上がるから嬉しく思う。自分にはできないという気持ちがその活動に私を向かわせるのだ。
科学者として発達現象を研究してくことは自分には無理だと思わせてくれたのが、カート・フィッシャーやポール・ヴァン・ギアートが残した一連の仕事だった。異様な諦めの気持ちが私を発達研究に駆り立てた。
そして、今も駆り立てられ続けながら毎日の仕事と向き合っている。自分にとって真に重要なものは、いつも途轍もなく高い壁を私の眼前に突き立ててくれるものであることに思いを馳せていた。
その壁が見える道こそ、自分が歩む道なのだと常に思って毎日を生きている。研究も作曲も自分には無理だとわかっているからこそ、そこに向かっていくのであり、その対象から手招きされるのだ。そのようなことを思う。
これはどこか幼少期の頃に感じていた感覚に似ている。何かに手招きされ、手招きの方向に向かって歩き続けるというのは、幼少期も今も変わりがない。
それは人生が一回転したかのような錯覚を私に引き起こす。だが、手招きするものに気付き、そこへ向っていく自分を知っているがゆえに、今の私は以前と全く同じ自分ではない。
それを考えると、螺旋を描いたことがわかる。しかし、それでもこれは円転運動だ。
今日この瞬間にこのような円転運動に気づいたのは、昨日の円周率に関する関心と密接なつながりがあるだろう。円を描くという現象、円の持つ性質、それらは今の私にとって深い意味を突きつけてくる。
読みに読み、書きに書くというのも、一瞬の円転運動なのかもしれない。この円転運動の先に何かを見出すことができるのだろうか。実はそれは大きな問題ではない。
何を見出せたかが重要なのではなく、何かを見出そうと生き続けることに価値があるように思うからだ。2017/4/30