昨日は夕方から夜にかけて、半年前に書かれた日記を編集していた。そのことを改めて振り返っていると、半年間という期間の中で、私自身が確かな足取りで前に進んでいたことを知る。
現実には、様々な紆余曲折を経ていたことは確かだが、それでも着実に前に進んでいたことを見て取ることができる。また、この半年間の中で起こった自分の変化を眺めた時、「前に進んでいた」という表現もあながち誤りではないだろう。
日記を読み返しながら、今の自分では到底書けないであろうことを当時の自分が文章にしていることに目が向かった。それは内容的にも形式的にもである。
当時の内容や形式が難解であるとか平易であるとかの問題ではない。当時の私には、その時にしか書けない内容があり形式があった、という話である。
半年前にしか書けなかったであろう事柄を、日記を読み返すという行為を通じてもう一度ゆっくりと捉え直していたのである。内容と形式の二つの観点のうち、私が特に着目していたのは形式であった。
当時の自分がどのような内容を取り上げていたのかにも関心はあったが、それよりも、そうした内容をどのように文章の形に仕立て上げて行ったのかという形式的な方法に関心が強くあった。文体の変化のようなものをそこに感じ取っていたのだ。
長大な時間を要して進行していく人間の発達現象を考えた場合、半年間という期間はとても短い。だが、半年間という短い期間であったとしても、内側の変化はその期間に常に起こっており、それをつぶさに追いかけることによって、短い期間の中でも何らかの小さな変容を経験することがわかった。
そうした内側の変容は、文体というものに現れる。そのようなことを思わずにいられなかった。
内側が変容し、発達を遂げていくにつれて、仮に同じ対象と向き合っていても、もはやこれまでと同じ方法でそれを表現することはできない。それを可能にするためには、変容前の文体ではなく、変容後の新たな文体が必要なのだ。
内側の発達は、質的かつ構造的な変化を伴い、もし内側の現象を文章という形で外側に表現しようとするのであれば、そうした変化が文体の質的かつ構造的な変化となって現れるというのも納得ができる。昨日私が感じ取っていた確かな前進とは、こうした内側の小さな変容に伴う文体の変容に現れていたのだと思う。 やはり内面の成熟とは、意味を汲み取る力のみならず、意味を創出する力にも如実に現れるのだ。それは、内側に入るものと内側から出て行くものの双方を決定づける。
私が日記を毎日綴っている一つの理由は、内側に入るものと出て行くものの双方をつぶさに捉えていくためにあるのかもしれない。自分自身の内側の中で生じるそれらの現象を観察することでしか、自身の内面の真の成熟はなしえないように思える。
今日という一日の中で、自分がどのような意味を汲み取り、どのような意味を創出するのかをこれまでと同様に観察するつもりである。観察結果に囚われるのではなく、観察行為に囚われたいと思う。2017/4/28