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1000. 霊感と天啓


昨日、グレン・グールドのベートーヴェンピアノソナタ全集を聴いていた。全てのピアニストが個性を持っているがゆえに、各人の演奏は個性的なのだが、グールドの演奏はひときわ個性が際立っているように思える。

私はある時期に、グールドが演奏するバッハの曲を好んで聴いていたことがある。だが、ベートーヴェンの演奏に関しては、今の私はあまり繰り返して聴くことはないだろう、という印象を昨日持った。

数日前にも32曲のピアノソナタを全て聴き、昨日改めて全ての曲を聴いた時にそのようなことを思った。曲そのものに内包された意味やエネルギーと同様に、演奏者の演奏が持つ意味やエネルギーが、その時の聴き手に合致するかどうかが大切なのだと思う。

もちろんこれは、演奏者側の視点ではなく聴き手側の視点である。聴き手にとって、やはりその時の自分が必要とする意味やエネルギーというものが存在しており、曲と演奏が持つそれらに合致するかどうかが重要になると思う。

今の私にとって、ベートーヴェンのピアノソナタは曲としての意味とエネルギーは私を捉えるものがあるが、グールドの演奏によって表現される意味やエネルギーは私の今の内側の感覚と合致していない。そのようなことを昨日思っていた。

そうしたこともあり、今朝はマウリツィオ・ポリーニのベートーヴェンピアノソナタを聴くことにした。アルファベット・ブレンデルやヴィルヘルム・ケンプという偉大なピアニストが演奏するピアノソナタも手元にあるのだが、いつもなぜだがポリーニの演奏の方に手が伸びる自分がいた。

ここに何かが隠されているに違いないと前々から思っていた。それは演奏者ごとに発せられる意味とエネルギーの確かな違いであり、それらと自分の合致度の違いである。

そうした差異が必ず存在するのだ。演奏者ごとに自分の中でもやもやしていた違和感の正体はそれだったのだろう。 毎日、朝の習慣的な実践を終えて仕事に取り掛かるのは、早ければ6時か6時半である。そこから音楽をかけ始める。

今朝は6時半から仕事を開始し、ポリーニのベートーヴェンピアノソナタをかけ始めた。これまで無意識的に行っていたのは、二つの方法のどちらかを採用してピアノソナタ全集を聴き始めるということだった。

一つには、第1番から10時間ほど通して聴くという方法と、第16番から聴き始めるという方法だ。前者の意図は、ベートーヴェンが最初に手がけた作品から最後までを追いかけることによって、ベートーヴェンの内面の成熟過程が持つ流れに乗りながら自分の仕事と向き合うことにある。

また、ポリーニの演奏する第1番の冒頭部分が、私の身体感覚の根底にあるものを呼び起こすようなのだ。そして、第16番から聴き始めるというのは、私がこの曲に何かを感じているからなのだろうが、それが何かは今の段階では不明である。

ただし、ベートーヴェンが大きな変容を遂げた時期の作品から聴き始めることを、私の内側の何かが望んでいることは確かだ。もちろん、私は人間の発達に関する研究を専門としているがゆえに、ある人物が変容を遂げた前後を比較する形で、その人物の仕事を捉えようとすることは納得できる。

だが、そのような理由以上の何かがこの曲に私を向かわせるのだ。ベートーヴェンがハイリゲンシュタットの家で遺書を書いた後に残したこの作品には何かがあるのだ。

この時期を境目に、難聴と孤独さを抱えていたベートーヴェンに強烈な霊感と天啓が降りてきたような気さえするのだ。ベートーヴェンはおそらく、それまでも自身の霊感と天啓を信じていたのだろうが、それは信じようとしなければ信じられないようなものだったに違いない。

だが、この時期を境目に、それらはもはや信じる必要のない確信に変わったのだと思う。ちょうどこの曲を創作している最中にベートーヴェンが述べた「私は今までの自分の仕事には不満足だ。これからは新しい道に入ることにした」という言葉の裏には、確信めいた霊感と天啓があったに違いない。そのようなことを思う。

私が第16番から聴き始めることがあるというのは、欧州の地で生活することを通じて得られた、自分の霊感と天啓に対する確信と共鳴しているからなのかもしれない。2017/4/28

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