985. 神聖視からの目醒め


先ほど入浴をしている最中に、多様な観点を持つことの意義は、世界を多様に眺めることを可能にすることにあるというよりも、自身のあり方と世界への関わり方を絶えず変容させていくことにある、ということに気づかされた。 今日は午後から、音楽関連の書籍に目を通していた。オーストリアの旅から戻ってきたその日に、書斎のソファの一角のスペースを座れるようにし、そこで芸術関連の資料を眺めるような時間を意図的に日々の生活の中に組み入れるようにした。

午後から夕食までの時間、ソファのその場所で音楽関連の書籍に目を通している時、冒頭のような気づきに至った。その背景には、対象への接近とそこからの脱却の重要性と、過去の偉大な作曲家を神聖視することなく、自分の内側の感覚を通じて彼らの作品を真に受け取るというのはどういうことを指すのか、ということを考えていたことが存在する。

ザルツブルグの街を訪れた時、そこではモーツァルトが過度に神格化され、神格化されたモーツァルトが過度に商業化されていたのを目撃した。私自身も、多分にモーツァルトの音楽を敬い、モーツァルトの存在自身を神聖視する傾向があったのは確かである。

しかし、ザルツブルグの街を訪れて以降、モートァルトが生涯をかけて成し遂げた仕事と音楽に捧げたものに敬意を表しながらも、モーツァルトから離れていったのはなぜだったのかを考える日々がこのところ続いていた。

そこには一つ、私自身がモーツァルトという存在を敬愛し、モーツァルトという対象に深く没入するということを長らく続けた結果、ようやくその没入から醒めたのだと思った。つまり、対象に深く入ることによって、対象からの脱却が起こったのだ。

そもそもそれを可能にしたのは、音楽に関する新たな観点だった。本日、音楽関係の専門書を読み進める中で、そういえば、ウィーンのモーツァルト博物館で見た作品のタイトルの言葉が何語なのかについて改めて疑問に思っていた。

モーツァルト自身の母国語はドイツ語であるが、そのタイトルの言語がドイツ語でないことは私の目に明らかであり、その時はそれがフランス語のように思えた。しかし、その書籍を読み進める中で、それがイタリア語であることに気づいたのだ。

そこから、モーツァルトがなぜイタリア語でその曲のタイトルを付けていたのかについて調べていると、そもそも、当時の音楽界において、イタリアの音楽が最上のものとみなされている史実を知った。

振り返ってみると、私の中で偉大な作曲家と思われる人物は、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンなどを筆頭に、ドイツ語を母国語とする者ばかりで構成されていることを知った。その時、彼らの原点にあるイタリアの作曲家の曲を聴く必要があるという気づきを得た。

世間の傾向と同様に、私自身、特に彼ら三人を神聖視する傾向があったことは間違いないが、そうした新たな観点を得ることによって、それら三名に対してある意味健全な距離を取れるきっかけが生まれたように思う。

何だか目が醒めるような体験であった。ここから完全に目を醒まし、新たな眼で彼らの音楽と向き合き、絶えず彼ら自身と自分への向き合い方を変容させていきたいと思う。2017/4/25

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