
昨日は、午後から夜にかけてピアノ曲の作曲に取り組んでおり、普段と異なる活動に従事していたためか、昨夜の夢も印象的なものであった。スイスの山脈を彷彿とさせるような場所に、列車が走る線路が複数あった。
山を切り開く形で複数の線路が走っており、それほどまでに数の多い線路を見たことがなかった。さらに、それらの線路には高低差があり、対向車線の組み合わせが山の高さに応じていくつもあるようなイメージである。
それらの線路を走る列車は、決して現代的なものではなく、近現代のヨーロッパの時代を彷彿させるような列車であった。赤と黒に塗られた列車が煙を出しながら走る姿を、私は上空から眺めていた。
その後、夢の場面が変わり、オランダの街でよく見かけるレンガ造りの家々が隣り合わせになったような居住地にある、一軒の家の中に私はいた。その家の入り口の造りが不可解であり、梯子がなければ入り口から出入りすることができない。
家の入り口が地面から数メートルほどの高さのところにあり、家に入る時は特に梯子が必要だ。そのような変わった造りの家の中にいた私は、用事があるために外出せねばならず、少し急いでいたためか、家の入り口の地面に向かって壁を伝うようにしてするりするりと降りていった。それらの印象的なシンボルを持つ夢を昨夜見た。 起床直後、昨日の作曲体験についてまた少し回想していた。自分が思い描くメロディーをもとに、音をあれこれ組み合わせることに数時間ほど没頭した後、ハイドンやベートーヴェンが作曲したピアノを何気なく聞いていた。
すると、それらの曲を聴いている私の内側に妙な違和感があった。おそらく、音楽理論無しに曲を作ろうとし、曲が形になるまで繰り返しぎこちない音の組み合わせを聴いていたためか、自分の耳が不協和音に調律され、本来調和の取れたハイドンやベートーヴェンのピアノ曲がとても歪な音の組み合わせのように聞こえてきたのだ。
この現象はしばらく続き、ベートーヴェンの曲を長く聴いていると再び自分の耳の感覚が元に戻った。その時に考えていたのは、これは耳の感覚のみならず、私の脳自体が、二つの対極にある異質なものをどのように認識・処理すればいいのかを迷っているようだった。
つまり、私の脳が不協和音と協和音の間で揺れ、両者のどちらに調律すればいいのかに対して右往左往している姿を見て取ったのだ。この体験は一見すると否定的に思えるが、実はそうではないことが少しずつ明らかになってきた。
作曲という活動は、音を注意深く聞くことを私に要求してきた。音を注意深く聞き続けるということを数時間行ったことにより、音を聞く感覚が研ぎ澄まさせれるような体感があったのだ。
そうした感覚が研ぎ澄まされたことによって、ハイドンやベートーヴェンが産み出した調和の取れたピアノ曲が奏でる音が、逆に、鋭利な刃物のように身体に切りかかってくる感覚がしたのである。
身体全身というよりも、特に脳内の神経細胞をつなぐ余分なシナプスが刈り取られていくような感覚があったと述べた方が正確だろう。自分の脳内に、これほどまでに不必要なシナプスが存在していることにも気づかされたし、また、余分なシナプスが刈り取られることによって、脳の神経細胞が再構成されたような感覚になった。
もしかすると、音と真剣に向き合う作曲という行為は、自分にとって、脳内の余分なシナプスを剪定し、脳全体を再構成するような作用をもたらすのではないかと思った。本来であれば作曲も日々の一つの習慣としたいのだが、まだそこには至らない。
今日から再び、読むことと書くことの日々が続くことになるが、今週末にまた作曲を行い、そこでどのような発見があるかを楽しみとしたい。2017/4/24