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975. 全体美と建築美


一昨日、昨日とベートーヴェンのピアノソナタだけを聴き続け、今日は打って変わって、モーツァルトのピアノソナタだけを聴き続けている。二人の偉大な作曲家の音楽を一日中聴き続けることによって、私の聴覚が麻痺し始めたのかもしれないが、今朝、ふとした気づきを得た。

モーツァルトのピアノソナタには、人間が固有に持つ作為性が感じられないのだ・・・。これらの楽曲のイメージはどこから生まれ、果たしてこれらは意思を持つ人間が生み出したものなのか、という感覚にぶつかった。

モーツァルトが活躍したウィーン、そしてモーツァルトが生誕したザルツブルグを訪れた時、私は自分の中で奇妙なことが起こっていることに気づいた。結局、モーツァルトにまつわる記念館と博物館を複数訪れ、関連書籍を数冊ほど購入したにもかかわらず、モーツァルトという人間が自分から遠ざかっていったのである。

それはモーツァルトを敬遠するということではない。実際に、今この瞬間の私はモーツァルトのピアノソナタを聴いている。

モーツァルトが自分から遠ざかっているというのは、モーツァルトという音楽家が掴みどころのない存在として私の中で立ち現れているということだ。これは私がウィーンやザルツブルグで感じていた、モーツァルトは物理的に地上界で生活をしながらも、精神的には天上界に生きていた人間だったのだ、という感覚と関係しているだろう。 今聴いているピアノソナタに限って言えば、モーツァルトが音楽にしたものは、どこか人間の匂いがしないのはそのためかもしれない。人間に固有の作為性が感じられないというのは、そのことに起因している気がしてならない。

モーツァルトのピアノソナタに少しばかり耳を傾けていると、ベートーヴェンのピアノソナタのような建築美とは異った美がそこに顕現されていることに気づかされる。もちろん、モーツァルトも音楽理論に基づいて作曲をしていったのだろうが、一歩一歩曲を構築していったという感じが一切しないのだ。

曲の最初から最後までが、すでにそこにあった感じがするのである。もしかすると、これは音楽のイデアのようなものと関係しているのかもしれない。

ベートーヴェンのように、透徹した意思を持って部分を積み重ね、それらの部分が一つの全体を構成した瞬間に、部分の単純総和を超えるような音楽を築き上げていったのではなく、モーツァルトの音楽は、部分の総和を超えるような全体が最初からモーツァルトの中にあり、それが楽曲として外側に現れたのではないかと思わずにはいられない。

先ほど私が聴いていた曲にも、そして今この瞬間に私が聴いている曲にも、最初からそこにあったと言わんばかりの全体感で満たされている。それがこのような、音楽のイデアが純粋に顕現したような美を放つモーツァルトの曲であるに違いない。 一昨日から昨日の二日間にかけて聴いていたベートーヴェンが作り出した美は、モーツァルトのそれとはやはり異なる。ベートーヴェンは、一つ一つの音を透徹した意思で建築していくような人であったように思うのだ。

彼のピアノソナタ全曲を作曲順に聴いていくと、そこには、人間の作為性が純化されていく過程を見て取ることができるかのようだ。人間に固有の作為性が透徹した意思によって純化された結果が、あの一連のピアノソナタなのであり、それらが生み出す建築美なのだ。

モーツァルトがもたらす全体美にも私を惹きつけてやまないものがあるが、ベートーヴェンがもたらす建築美の方に今の私をより強く惹きつけてやまないものがある。2017/4/23

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