883. 生の実感に関する「前超の虚偽」


今日の午前中は、計画していた通りに、システム科学とネットワーク科学の専門書を読み進めることができた。システム科学の専門書の方は、800ページに及ぶ大著だが、本日現在、およそ半分ほど読み進めることができた。

また、ネットワーク科学の専門書の方も、全11章のうち、9章まで読み進めることができている。毎日少しずつそれらの書籍と向き合うことによって、気付かない内に、自分が遠いところまで辿り着いていたことに気づく。

これは何も書籍を読むことに限らず、全ての仕事に当てはまることだろうし、人間の発達現象の全般にわたって当てはまることだと思う。午後からも、計画通りに、論文の執筆に励みたいと思う。 午前中の仕事を終えた後、昼食をゆっくりと摂っていると、生きるという実感に関しても「前超の虚偽」なる概念が適用されると思った。前超の虚偽とは、端的に述べると、未成熟のものを成熟したものと混同することである。

あるいは、下位の発達現象を上位の発達現象とみなしてしまったり、上位の発達現象を下位の発達現象とみなしてしまうことを指すと言い換えることができる。生きるという実感に関して言えば、生かされている(前)、生きている、生かされている(超)というように、その感覚は成熟を遂げていくと思うのだ。

意識の形而上学をかじったとこのある人たちは、頻繁に「自分は生かされている」というようなことを口にすることを耳にするが、十中八九、彼らの生き方は超越的な段階のものではなく、前段階のものであるように思えて仕方ない。

それほどまでに、真の意味で「生かされている」という実感を得ることは難しいことであり、そもそも「生きている」という主体的な生の感覚すらも、現代人には得難いものだと思える。それゆえに、「生かされている」というような類いの言葉を発する人に対しては、私はかなり疑いの目を持って見てしまう傾向がある。

興味深いことに、生かされているという感覚を真に持っている人は、たやすくそのような言葉を発しないであろうし、何より、真にそうした感覚を持っている人の言葉を聞いた時、私は疑いの目を向けることはないのだ。

やはり、人間には、その人の言葉が存在と密接に関わった真実のものなのか、虚偽のものなのかを見極める眼と、それらを嗅ぎ分ける嗅覚のようなものが本質的に備わっているのだろう。そのようなことを考えながら、昨日、フローニンゲンの街を離れ、ローデンという街にコンサートを聴きに行った出来事について考えていた。

演奏会場は、バスで30分ほどの距離にあるところであったから、遠出をしたわけでは全くない。ただ、自宅から歩ける距離の半径数キロ以内で普段の生活を形作っている私にとって、昨日の何気ない外出は、とても新鮮なものに満ちていた。

一方、自宅から半径数キロ以内で生活を形作っているだけなのに、日々これほどまでに学ぶことがあり、これほどまでに考えさせられることがあることにも驚く。事実、物理的な生活範囲がいかに狭くても、心的な活動範囲は無限の射程を持ち、書き留めておきたいことがとめどなく溢れてくるのだ。

こうしたことは、主体的に生きていれば、あるいは、真の意味で生かされていれば起こるようなことなのだろうか。午後からも、書くことを通じて今日という一日を形作りたいと思う。2017/3/27

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