881. 余白と不思議な境界線


昨日は、上の階に住むピアニストの友人のコンサートに足を運んで本当に良かったと思う。ローデンという小さな街の中の、とある一軒家で行われたコンサートは、私の内側に一つの経験として刻み込まれたように思う。

そこでの演奏は、静かに私の内側に流れ込み、これからの私に何かしらの影響を与えるようなものであった。自宅のドアを開けてから、自宅に戻るまで、合計で三時間強の時間だったように思う。

それほどまでに、演奏会が行われた場所は自宅から近く、あっという間の時間だったように思う。演奏会から帰ってきた私は、自分の内側で何かが入れ替わったような感覚、あるいは何かに満たされたような感覚になっていた。

それはコンサートという環境の中で音楽を聴くことの作用だろう。また、覚醒中の意識において、久しぶりに三時間を超える休憩を取ったこととも関係しているかもしれない。

日々の自分の生活を振り返ってみると、他の活動をせずに、ゆっくりと音楽だけに集中するような時間を設けていないことに気づく。毎日、就寝の一時間か一時間半前まで、読むことと書くことに専念するような過ごし方をしていることに改めて気付かされた。

そうしたことを考えてみると、昨日のコンサートは、自分の中に良い意味での空白を作るような機会となった。おそらく、内側に空白をあえて設けたがゆえに、コンサートが終わってから、その空白に何かが流れ込むような感覚になったのではないかと思う。

何においてもそうだが、余白というのは意味深長だ。それは表面的には、何もないように見えるが、実際には、その裏に豊穣な意味が隠されているものだと思う。コンサートから帰ってきた後に、私の内側に満たされるものがあったのは、もしかするとこれと関係しているかもしれない。

つまり、心に余白を設けたことによって、余白に内包されている意味が溢れ出してきたのである。空白を設けて、そこに新たなものが滲み出すというのは、非常に興味深い現象だと思う。 この現象が起因となり、昨日も就寝前に、自己からほぼ完全に脱却するような意識状態にあった。これを言葉で説明するのはいつも難しいのだが、これまでとは違う説明の仕方があるような気がする。

自己というのは、そもそも無限の階層性を持っている。つまり、その瞬間の認識世界の中で、自分だと思っている自分をさらに俯瞰的に眺めている自己は重層的に存在するのだ。

もっと簡単に述べてしまうと、自己をメタ認知で認識する自己というのは無限に存在するということだ。昨夜の就寝前に体験したことというのは、メタ的に自己を認知する淵に立つような感覚だった。

もうそれ以上、自己をパノラマ的に眺めることはできないというところまで認知が及ぶような現象だ。この現象には、実は境界線があることに明確に気づくようになった。

以前は、この境界線の存在をぼんやりと感覚的に捉えることに留まっていたのだが、今はあたかもその境界線が目に見えるかのような次元で捉えることができるようになっている。

その境界線は、それを超えてしまうと、完全に自己から脱却することを余儀なくさせるようなものだ。その境界線の手前は、自己を無限にパノラマ的に眺めることのできる感覚が続き、その段階ではまだ、かろうじて自己の感覚がある。

というのも、自己を眺めている自己に気づきを与えることができるからだ。だが、その境界線を一歩でも超えてしまうと、話は全く違う物になる。

その境界線の外側には、もはや自己を眺める自己すら存在しない。完全に自己が滅却するような境地がそこに開けている。

これは嘘でも大げさでもなく、コップの水を飲むよりも現実感で満たされている。それぐらいにリアルな感覚だと言っていい。

境界線のその先には、気づきを与える自己というものが雲散霧消し、自己が気づきの世界そのものに溶け込んでしまうと表現していいだろう。以前紹介したように、この体験の萌芽は、今から六年ほど前に、米国に留学していた頃に生まれた。

その時は、この境界線に近づきそうになるたびに、絵も言わぬ恐怖感に包まれ、境界線から一歩足を踏み出すようなことを決してしなかった。だが、今は望むと望まぬとにかかわらず、その境界線の外に出ていくような現象が自発的に起こっている。

まさに昨夜の体験がそうだ。気づきの意識の中で自己に気づくのではなく、気づきの意識そのものになるというこの感覚は、今後も定期的に私に訪れるだろう。

それを体験するたびに、体験後の私は、体験前の自分とは微妙に違う世界にいるような気がするのだ。2017/3/27

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