876. 茶番な師弟関係


先日、自分の研究データを眺めていた際に、面白いことに気づいた。それは、今回の研究のデータの中で、クラスの回を追うごとに、学習者は学習項目に関する理解度を向上させ、その一方で、教師側の関与の度合いが減少していたのだ。

より厳密には、今回の研究で活用した、カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論の尺度において、教師がクラスの中で説明する複雑性のレベルは、クラスの回を追うごとに減少傾向にあり、逆に、学習者側はそのレベルを増加させる傾向にあったのだ。

これはもちろん、今回の研究で取り上げたコースの趣旨と構成が少し特殊だったからかもしれない。このコースでは、教師と学習者とのインタラクションに重きを置き、教師はある意味、ファシリテーターの役割に徹することが求められていた。

それにしても、クラスの回数が増えていくことに応じて、教師の発言の複雑性が減少傾向にあったことは興味深い。これはまさに、学習者側の理解度の向上に応じて、教師側が徐々にその支援の度合いを緩めて行ったという現象が背後にありそうだ。

つまり、教師は、学習者にとっての足場となるスキャフォールディングの度合いを徐々に下げていったのだ。言い換えると、学習者が徐々に高い理解度を獲得していったことに応じて、教師側が関与の度合いを緩めていったと考えられる。

結果的に、学習者は教師と同様のレベルにまで到達し、教師からの支援をほとんど受けなくても、高度なレベルを発揮することができるようになったのである。この様子を見ていると、教師とは、学習者の発達を支援する役割を担う一方で、支援関係は永続的なものではなく、一時的なものなのだと思った。

言い換えると、教師という存在は、ある領域において自分が発揮する能力レベルに学習者が到達するまでは、支援する者とされる者という関係を学習者と結ぶが、ひとたび学習者が自分と同じ能力レベルまで到達すると、そうした関係は自然と消えていくのだと思ったのだ。

もちろん、学習者が教師を敬う気持ちは永続的なものだとしても、学習者が教師から発達的な効果を真に享受することができる期間というのは一時期的なものだろう。自分自身に置き換えて考えてみると、これまで多くの師を持ち、今も多くの師を持っているが、永遠に一人の師から学び続けるというのは、随分とおかしなことだと改めて思わされた。

長きにわたって一人の人間から学びを享受することがあったとしても、それは決して永続的なものではない。やはり、優れた師というのは、弟子に乗り越えられていくのが巧みな者のことを指すのだと思わされた。 師を一向に乗り越えられない弟子は、そもそもその領域において見込みがないと言えるかもしれない。一方、弟子を成長に導けない師は、もしかすると、そもそもその道において偽者なのかもしれない。

これは、人を成長に導く能力や個性の問題ではなく、成長を促すエネルギーというものが、そもそも高い場所から低い場所に向かって流れるという性質を考えてのことである。仮に、その道における師の能力が高度に発達しているのならば、その道を歩もうとする弟子は、師から成長を促すエネルギーを自ずと享受するように思うのだ。

そうしたことが起こらないのであれば、弟子が一切の見込みを持っていないためか、弟子がすでに師匠と同じレベルにあるからなのではないだろうか。自分に置き換えて考えると、今現在、複数の領域を同時並行的に探究し、これからも多様な領域を探究していくことになると思うのだが、どのような領域を探究するにせよ、見せかけだけの茶番な師弟関係は避けたいものである。2017/3/25

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